原爆とボクたち

ボクたちの原爆体験記

   “ポプラは語り継ぐ!”

”ポプラは語り継ぐ!”は、原爆生き残りのボクたちが還暦を迎えた平成3年に、後の世代に語り継ぐべく、約110名の同期生が 書いた原爆体験記です。以下(同期生の)荒谷君が要約して英訳したものです。

1.まえがき
     
1945年8月6日の原子爆弾によって私達広島県立第二中学校2年生(約300人)の大部分は、もう少しで死ぬところでした。事実、私達はその前日は爆心地の近くにいましたし、その運命の日のその時間も多くの級友は市内中心部にいる筈でした。
しかし私達のスケジュールは前日夕刻に、一人の引率教師の思いつきによって急に変わって爆心地より離れた場所にいたため、重軽傷を受けたものの生命に別条なく助かったのです。このことに私達は運命の不思議さを感じております。

私達の負傷は他の多くの負傷者に較べれば軽く、若くて意気もあり、我が家や学校を目指して被爆直後の市内に入ろうと努力しました。その途中で、あるいは翌日・数日後に多くの忘れ得ない惨状を目撃しました。

しかし亡くなった人々のことを思うと生き残ったことを素直に喜べず、長い間被爆体験を進んで語ることがなかったのですが、60歳になったのを機会に約100名の級友が被爆体験手記を書いて
“ポプラは語り継ぐ”の題名で出版しました。
本の題名の中のポプラとは第二中学校のシンボルの木です。

これはその本の要約です。

2.被爆前の状況

戦況が日本に不利となり、上級生は軍需工場へ行き、2年生と1年生は建物疎開のために働きました。建物疎開とは、市内が焼夷弾で攻撃されたときに火災の広がりを防ぐ防火帯として家屋を壊すことです。県庁・市役所・日赤病院などの重要な建物の周辺も強制疎開しました。このうち幅100m東西3kmの空き地跡が戦後平和大通りとなりました。

強制疎開の対象家屋は、民家・商店合わせて約16,000戸で、この作業に従事中の旧制中学・高等女学校・尋常高等小学校の1,2年約8,400人が動員されて、そのうち6,300人が犠牲となりました。
私達の作業場は今の平和公園の南、爆心地から800mの所でした。

3.運命の分かれ道

当時は夏休みもなく、2年生と1年生は日曜日も含めて1日置きに交互に学校と建物疎開作業に行きました。前日8月5日は2年生の作業の日でしたので、8月6日は2年生の登校日でしたので、もしも予定が変更されなかったら、私達頃は登校途中で市内を歩いているか、すでに学校校舎(爆心地から1.9km)の中にいた筈です。校舎は倒壊して火災となったのでいずれにしても死んでいたでしょう。

原爆の前日、作業が終わった時に、主任教師関本先生が私たちに、つぎのように命令されました。「明日は学校へ行く予定だが、代わりに広島駅北側の東練兵場のなかの、さつまいも畑に行きなさい」。
もし私たちが予定通り学校へ行けば、私たちの多くは原爆が投下された時に、市内中心部で殺されていた筈です。関本先生は命の恩人です。

芋畑は爆心地から2.2km離れていたため、300人の生徒と6人の先生は全治1〜2ケ月程度の火傷だけで生き残りました。
一方、1年生321人と6人の先生は予定通りの作業場にいて全員死亡しました。
1年生全滅の悲劇は”いしぶみ”に記録され、さらにテレビ番組になりました。
その記念碑が平和祈念公園の本川のそばにあります。

4.被爆直前・直後の状況

私達の負傷は軽かったとは言え、それは恐ろしい経験でした。

私達が東練兵場に集合し始めた時に飛行機の爆音を聞きました。青空にB−29爆撃機が全速力で退避するのと、2−3個のパラシュートが見えました。級友の中にはドラム缶のような黒い物体の投下を目撃した人さえありました。

それは恐らく原子爆弾でしょう。

ビーンと頭から抑えつけられるような音と同時に物凄い青黄色の閃光によって、周囲が一瞬目も眩むばかりに明るくなりギラギラと照らし出されました。同時に爆風により地面に叩きつけられました。
私達は日頃の訓練の成果でしょうかとっさに両手の指で鼻穴・両目・両耳を押さえました。 硫黄のような悪臭を感じて息を止めました。

広島市内上空低い所を左右に揺れ動きながら落下する火球を見た級友もいました。
続いて、 熱波が襲ってきて髪や皮膚がジリジリと焦げる音を聞きました。辺りは薄暗く火薬の臭いのする黄色い熱風が渦巻き薄黒く見えました。何が起こったのか見当もつきませんでした。
やがて辺りが明るくなり立ち上がって空を見上げると、きのこの形の雲がピンク色に輝きながら、そそり立っていました。大きな負傷はないようでほっとしましたが、級友の顔が煤けて黒くなっているのを見て、自分の顔も煤けていることに気付きました。全員が 顔・首・腕・手・足首などの露出部に火傷していて、ヒリヒリと痛みを感じ始めました。

集合時は上着を脱ぐことになっていましたので、早くから集合して上着を脱いでいたまじめな級友は肩まで火傷しました。爆弾が爆発した時は私達はB29爆撃機を見上げていたので揃って左顔に火傷しましたが、顔の正面からの被爆でないため目に負傷しなかったのは幸運でした。火傷部は手で触るとずるずると皮膚が剥げました。また、赤身の部分に日光が直射すると痛みが増加しました。

5.被爆直後東練兵場・二葉山

東練兵場に積み重ねてあった枕木が燃え、二葉山中腹の建物も燃えました。これは熱波によって着火したものでしょう。
目の前の愛宕町の家々は倒壊しましたが直ぐには着火せず、しばらくして2−3カ所から小さな炎が上がりました。この場合は恐らく台所の火からの着火でしょう。もしも早く消火活動していれば火災を防ぐことができたでしょうが、ほとんどの人が負傷して呆然としており、火災は広がりました。

私達はほかの負傷者とともに二葉山の中腹に避難しました。その理由は東練兵場に集まっておれば、再度空襲されるという懸念と、直射日光から火傷部を守るためでした。
二葉山から見ると火の手が上がるまでは市内は平べったく見えました。東練兵場の引き込み線の客車1両が火災を起こしてつむじ風を併発して燃えました。

東練兵場には市内から負傷・火傷した人々が集まって来ました。その人々の衣服ぼろぼろ、ほとんど裸に近く、焼けただれて皮膚がぶら下がり、火傷部の皮膚のない部分は赤く焼けただれて赤身がみえました。その人々は幽霊のように手を前に垂らして歩いておりました。
骨が見えるほどの重傷者もいました。 髪は焼けちじれていました。これらの重傷者の姿は原爆資料館の展示品と同じです
目に木の枝がささった女学生もいましたが、彼女はしっかりした態度でした。背中一面に火傷してうつぶせに横たわっている 重傷の兵隊さんを介抱しようと思いましたがなす術はありませんでした。

6.被爆後の各自の行動

しばらくして私達は自分の家や家族、あるいは学校のことが気になりました。自宅や学校を目指して直接の市内入りを試みましたが、爆心地から2km以内は原爆の熱線で倒壊家屋に着火して炎上しました。市内に通ずる橋はいずれも通行不能の状態で、自宅が中心部にある級友は火勢が衰えるのを待って、また市の北部・西部に向かう者は街全体が巨大なたき火となって燃え盛る中心部を迂回して自宅に向かいました。この火災による上昇気流により、爆心部では竜巻現象が起き、市西北部の広い区域で放射能を含む“黒い雨”が降りました。東北部・東部を目指す級友は比較的容易に家に帰れました。

公共交通手段は被爆直後は全面停止しましたが、やがて部分的に運転を再開しました。
国鉄山陽線西行きは翌日より西部郊外の己斐から、芸備線は翌日より北部郊外の矢賀から、山陽線東行きは当日東部郊外の海田市から、呉線は当日東部郊外の矢野から運転を再開しました。
また宮島行き電車は当日西部郊外の草津から運転しました。しかし重傷者で混み合っており、級友たちのほとんどは徒歩で帰宅しました。

当時電話は非常に少なく、また被爆により寸断されていて、負傷者は家に電話することはほとんどできず、家族はとても心配しました。

7.自宅・学校を目指す途中で目撃した惨状(被爆当日)

倒壊した建物は火災を起こしました。倒壊した建物の下敷きになった人々の多くは救出されず、生きたまま火葬されました。救出しようとした人も火が迫まってきて、手を合わせてお詫びし、冥福を祈って逃げました。
下敷きになった我が子を救出するために我が子の足を切断した気丈な母親がいました。しかし出血多量でその子は死亡しました。

倒壊した建物から逃げることができた人も今度は火災の熱に襲われ負傷者たちは火の中を逃げまどいました。煙の中では5メートル先しか見えないので、負傷者が煙の中から湧き出る様に現れました。
川の対岸で負傷者が火の中を逃げまどっていましたが、どうすることもできませんでした。多くの負傷者は水を求めて、或いは火災の熱から逃れるために川に入り、多くの人はそのまま川の中で死にました。川の中の魚でさえ熱波によって皮が剥けて死んでいました。

この爆弾により人々は恐ろしい負傷を受けました。負傷者は手の先から剥げた皮膚をぶら下げて幽霊のように歩いていました。全身ガラスの破片の刺さった血だらけの負傷者もいました。
夏の太陽の照りつける熱いアスファルト舗装の道を裸足で歩く負傷者はさらに苦痛が重なりました。 橋の上には多くの負傷者がうずくまっていましたが、その人々は顔の判別も男女の区別さえわからない有様でした。焼けただれた赤子を抱いて救いを求める母親、また死んだ母親の乳房を吸う赤子もいました。それは阿鼻叫喚の地獄でした。

火傷した人は誰もが“水をくれ”と叫んでいました。道ばたに横たわっている負傷者が、水を求めて通行人の足首にすがりつきました。しかし、殆どの場合水を与えられなかったのです。それは水を与えると死ぬと言う噂が広まったためです。、級友の一人が見かねて何人かの負傷者に末期の水を飲ますと、”ありがとう”と言って息を引き取りました。

私達の軽い火傷の場合、皮膚の残っている部分が水ぶくれとなりましたが、水を飲むとふくれがひどくなりました。ふくれた部分の皮膚を挟で切ると卵の白味のような液体が流れ出ました。
火傷の応急処置としてアンモニアが効くと聞いていたので、自分の小便をかけてみました。
また、火傷部を水に浸すと火傷の痛みが和らぐことが判りました。窓ガラスに写る自分の火傷の姿は別人のようでした。

北西部に逃れた級友は黒い雨に遭いました。ある級友たちは再びB29が見えたので空き地にあった布団の中に頭を隠しました。その布団の中は異様なな臭いがしたのでめくってみると全身火傷の若い女性の遺体がありました。
郊外の人々は救護活動を開始して、握り飯や乾パンを支給してくれました。郊外の学校は緊急病院に変わりましたが、重傷者で非常に混雑していて私達軽傷者は看てもらえませんでした。広島市内は一晩中燃えました。

8.翌日・数日後目撃した惨状

火災はすでに収まり、広島市内は一夜にして平らな焼け野原となっていました。市内中心部の倒壊を免れたいくつかのビルディングが広島駅前から見渡せました。
道ばたや橋の上に多くの黒こげ死体がありました。橋の上の死体は通行できるように欄干の高さまで積み上げられていました。川の中に多くの死体が浮かんでいて、その上を歩いて渡れそうでした。
兵隊さんは川の中の死体をかき集め、川端に積み上げて火葬にする作業に多忙でした。
私達の学校の校庭も臨時死体置き場となり、二三十人の死体が一列に並べられていました。焼けた電車の中に椅子にすわったままの黒こげ死体がありました。馬の死体も多く、火傷部は人間と同じようにふくれあがっていました。

防火用水槽の中に立ったままの死体がありました。川までたどりつけなかった負傷者がこの水槽の中に避難したのでしょうが、人々で混み合っていた上に水量がとても足りず、火災の熱から逃れられなかったのでしょう。体の上部は黒こげで、水に浸っていた足首だけが生のままでした。

相生橋の近くに縛られた米兵捕虜の死体があり、それにむち打つ人々もありました。その米兵は数日前に広島上空で撃墜されたB−24爆撃機の乗員でしょう。肉親を探して声を限りに探す人々がいました。

郊外の緊急病院の状況も悲惨でした。医師と薬は少なく、一晩中うめき声と念仏の声が聞こえました。
顔を火傷した人にヤカンの水を口飲みさせると焼けただれた唇の皮膚が剥がれてヤカンの口に付着しました。級友の一人が避難所で負傷者と一緒に一晩寝ましたが、翌朝隣に寝た人は死んでいました。

多くの重傷者は一週間以内に死亡しました。級友の一人の叔父は爆心地近くで被爆しながら建物の陰にいたため無傷だったのですが、数日後死亡しました。川の中に10時間も避難していたため放射能に曝されたのが死因だったのでしょう。

火傷の薬が手に入らないので、いろいろな代用品を試みました。
(1)食用油と食塩の混合物 (2)病院がくれたチンク油 (3)人骨の粉末 (4)すりつぶしたじゃがいも(効果あり)(5)すりつぶしたきゅうり (6)赤チン (7)硼酸水(これは良くなかった)
効果があったのは、すりつぶした生のじゃがいもを塗ることでした。

ある級友の顔の火傷があまりにも醜いので家族が家中の鏡を隠したとのことです。ある級友は火傷部が化膿してウジ虫が這い、臭気を放ったそうです。

幸運にも私達の火傷は2ケ月以内に全治し、多くの級友はいまなお健在です。

9.生き残ったこと、原爆・平和についての感想

私達は一緒に被爆したものの、級友はそれぞれの異なった経験・感想を持っております。
みんなの意見を正確に伝えるために羅列します。

(1) 生き残ったことへの感想
犠牲者に対するうしろめたさ。
自分に助けを求めた下敷きの人・負傷者を助けることが出来ず異常事態で自分が逃げるのが精一杯。
忘れられない情景。
運命の不思議さ。(予定が急に変わって命拾いした)(1日違いで助かった)
運命の岐路。(病欠したが当日朝、医者に行っていれば死んでいた筈)
幸運に恵まれて生き残った。有意義に生きたい。
いまの平和は多くの人の犠牲により享受したもの。生き残った人は一日一日を大事に。
いまの平和と繁栄は多くの犠牲により得た。生き残ったものは恒久平和に貢献すべき。
犠牲者の死を無駄にせず二度と悲劇を繰り返すな。
犠牲者の冥福を静かに祈る。
今日までよく命永らえた。
九死に一生の幸運であった。その後も病気で生死をさまよったが生きている。
毎日元気で働ける喜び、亡くなった1年生のためにも頑張る。
生かされた命を大切に世のため人のために尽くしたい。
生き残った幸運に感謝し、どのように恩返しすべきかを考える。
拾った命、人生再出発、還暦でも日夜多忙。
青春時代の貴重な体験を生かして日本の健全な発展のために尽くすべきである。
1年生が我々2年生の身代わりになってくれた。
終戦直後の生活難・食糧不足がむしろきつかった。
運命だったと達観する人もいるが犠牲者に代わり核の廃絶・平和の希求と、語継ぐ必要。

日本政府がポツダム宣言を“黙殺”したことを“拒否”したと誤解された。
受け入れるか“熟慮中”と回答すれば、原爆投下もソ連参戦も防げた筈であった。
犠牲者の御霊よ、人類の犯した最大の愚行を許し給え。
愚かな過ちを繰り返さないために生き残った者に課せられた者は何かを考える。
当時お世話になった人へ感謝する。今老いを知らず生き続けている。
自分の世代の運命を感ずる。戦争・被爆・敗戦・学校教育制度の変革・経済的発展。
原爆体験について初めて書いた。触れたくなかったのである。
当日朝休みたいという弟を叱って学校へ行かせて死亡した。嗚呼、万感去来昨日の如し。
戦時の軍国主義教育の是非はともかく精一杯努めた。
当時の教育により日本の不敗を信じた。教育の怖さを思い知る。

(2)被爆の惨状について
忘れることが出来ない。
二度と思い出したくない。
これまで語らなかった。
地獄を見た者は地獄を語りたがらない。
長い間沈黙を守ってきたが記録に残して伝えて行くのが義務。
原爆症で20年間悩まされた。
ガラスの破片が今でも柱に突き刺さったままである。
虐殺の責任は問われないのか。
人間の極限の残虐さ。何もできないことへの重い思い。せめて体験記の発行が鎮魂歌に。
悪夢のような地獄のような長い一日。
あの悲惨さを忘れたいとの潜在意識により記憶が無くなったが思い出してきた。
地獄の体験後に家族に会えて嬉しかった。
地獄のような状況下では、人の死に立ち合っても恐怖も感動も無くなる。

(3)平和運動・原子力の平和利用について
原爆は絶対許されない。
原爆には反対だが、原子力の平和利用は賛成。
核兵器は絶対使用してはならない。しかし核エネルギーの平和利用を期待する。
核の平和利用にも事故の不安がある。
被爆者であることを隠してきたが、それで良かったのかと反省。
声高の平和運動よりも静かに犠牲者の冥福を祈りたい。
平和のありがたさを実感。政治的でなく純粋な気持ちで平和を願う。
8月6日は一人静かに祈り、原爆許すまじの歌を心の中で歌う。
毎年原爆記念日には慰霊碑に犠牲者の冥福を祈り、核戦争がないように念願している。
国際環境とは無縁の“一国平和主義”に逃避するのみでは真の世界平和はえられない。
単純に戦争を否定して、非道なこと、国際的な暴力にも目をつむる国になってはいけない。
政治的平和運動はご免。平和のありがたさを噛みしめながら犠牲者の冥福を祈る。
政治的平和式典はご免。厳粛に鎮魂。
原水禁・平和運動はよいけれど、それを利用している運動団体には共感できない。
戦争の愚かさを若い人に教えて日本の果たすべき役割を考えよう。
平和で戦争を知らない若い人たちへ伝えて世界の人々と協力して平和を維持しよう。
教職となって毎年8月に平和学習会を開き被爆体験講話をして子供達に平和を考えさせる。
貴重な体験として後世への戒めとして語り継ぎたい。
私の勤務校では第二次世界大戦の被害者加害者の立場を学び真の平和な社会を創る学習。
原爆はハイテク兵器。湾岸戦争で多国籍軍のハイテク兵器攻撃の犠牲者を想う家内と二人で久々に帰広して平和を改めて祈願した。しかし世界各地の紛争は続く。
大量殺戮兵器を憎む。各国のエゴを取り除かねば平和と共存はない。
原爆投下がなかったら終戦はさらに遅れて犠牲者が増えた筈。また世界戦争の抑止力となっている。
だからこそ原爆犠牲者は尊い。
しかし、だからと言って被爆者はたまったものではない。

以上


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