原爆とボクたち

被爆前後の状況の回想

   被爆死した父母の五十回忌に想う  高橋敏之 

1994年8月31日

( 被爆前の状況 )

太平洋戦争末期の昭和20年に入ると、戦局の逼迫が身の回りにも一段と感じられるようになった。
父の勤務する日本発送電株式会社中国支店の若い社員が軍隊に招集されると、東千田町の我が家に別れの挨拶に見えた。そんな時、父は時おり軍刀(昭和新刀という軍隊用の刀)を贈って送り出していた。

またある日、招集され戦線に赴く福山の伯父夫婦が我が家に泊まられた。伯父夫婦は夜遅くまで父母と話をしていたが、50才に近い伯父までも招集される現状を、私は情けなく思った。そして父は近視なので、招集されないのでは、とも考えた。

翌朝、私は何故か伯父に挨拶せずに学校に向かったが、その途中の千田町の貯金局あたりで、市内電車に乗っていた伯父が私を見つけて笑顔で手を振っているのに気がついた。私は咄嗟にもう会えないかも知れないという気がして、無意識に挙手の礼をした。伯父の武運を祈るとともに、自分も早く戦いに加わらねばならないと決心した。

当時全国の都市は、毎日のようにB29爆撃機や艦載機が襲来していた。広島に近い呉・岡山・徳山はすでに空襲を受けていた。しかし広島は毎日警報が発令されるのに爆撃されなかった。その理由について子供なりに級友と話していたことは、敵は太田川上流のダムを破壊して広島を水攻めにするつもりではないか、であった。

ところが4月30日の朝、食事をしていた時、ヒュルヒュルと鼠花火のような音の後、爆発音が鳴り響いた。近くに爆弾が落ちたのである。私は思わず 茶ぶ台(食卓) にもぐって畳に伏せた。台所にいた母は、そんな私を見て「意気地なし」と叱った。私は黙って登校し、帰りに爆弾の落ちた場所に行ってみた。

そこは雑魚場町国泰寺近くの中国配電株式会社の倉庫で、警防団の人は「500キロ(1000ポンド)爆弾で、爆撃でできた穴の直径は17メートル(18ヤード)」だと言っていた。

それより1週間前、千田国民学校5年生であった私の弟の誠は、学童疎開(*注1)によって農村部(広島北部)の寺へ移った。5月に入ると私達一家も市内中心部の東千田町から西部郊外の古田町高須へ疎開した。疎開先は一井さん宅の2階であった。

妹の和子は近くの古田国民学校1年に入学した。私は西観音町の広島第二中学校の2年生となり、父は大手町の日本発送電中国支店に通勤していた。そして戦局悪化をますます身近に感じるようになった。

一方、その頃の中学校では、こわい上級生は軍需工場に動員されていて登校しなかったので、私達2年生は上級生への敬礼を忘れないよう周りに気をつける必要はなかった。逆に1年生からの敬礼を気軽に受ける立場にあった。

授業は毎日ではなく作業にもでかけた。作業の場所や内容は、宇品の糧秣廠・金輪島の造船所・白島の兵器庫での作業、近郷の出征兵士留守家族の農作業の手伝い、仁保の陸軍養豚場の餌やり・掃除、横穴堀り、建物疎開(*注2)など、銃後(前線に対する国内のこと)の小国民(少年少女)もまた、月月火水木金金(土曜・日曜なしの意味)の毎日であったように思う。学校での考査(テスト)も空襲警報が発令されると中止になり、後日やり直しとなって損した気分であった。

そのような時期であるので、良い思い出は少ないが、それでも断片的に印象に残っていることがある。それは李鍝公殿下との偶然の出会いとB24爆撃機の撃墜である。

李鍝公殿下は朝鮮王族の最後の皇太子、李王垠の甥である。陸軍教育参謀中佐で、殿下の宿舎(第二総軍官舎前田別荘)は私の疎開先の家の近くであった。登校の途中で、軍馬に跨って司令部に出勤されるお姿をお見かけした時、中学生の私が思わず敬礼をしたら、殿下が馬上からきちっと答礼されたのである。それだけのことであるが、その時の情景は今でも脳裏に焼き付いている。殿下もまた、8月6日の出勤途上で被爆され逝去された。

B24爆撃機については7月28日のことであった。当日空襲警報で考査が中止されたので、学校のプールで泳いでいたら、B24の編隊が低空で飛来した。日本軍の高射砲弾がB24の1機の尾翼に命中して、煙をふきながら機首を下げ、五日市(広島市西部)の山中に墜落した。

その前にパラシュートが2,3個開いて降下するのが見えたので、私は級友とプールから出て服を着て、降下地点と思われる庚午沖の川岸を目指して走った。川岸には憲兵少尉が馬で駆けつけ、待たせてあった伝馬船(小舟)に飛び乗った。ところが舟が揺れたはずみで軍刀の刀身が川の中に落ちた。恐らく留め具が外れていたのであろう。瞬時の出来事であったが、その時は何か見てはならぬものを見てしまったような気がした。

そのほか学校で私が関与した偶発事故があった。私は物象2類(化学)研修班に属していて、放課後級友たちと実験室で化学実験まがいのものをしていた。ある日、戸棚にあった薬品の中から金属ナトリウムの小片を取り出して、ビーカーの水の中に投げ込んだ。驚いたことには小片は水面をくるくる回りながら水素ガスを発生して、消し忘れたブンゼン灯の炎で引火して爆発した。ビーカーの破片が飛び散り、周りにいた級友が怪我をした。先生が飛んでこられたが張本人の私は叱られなかった。後片づけして家に帰ると、私の上着の背中に焦げ穴があるのを母が見つけて、どうしたのかと聞いた。私は誰かが濃硫酸をかけたのではないかと思ったが、母には学校での失敗を黙っていた。

また学校の柔道場に泊まって夜警をした時、プールで泳いだ後、六尺褌を国旗掲揚台のひもに吊して乾かしたことがある。褌はヒラヒラと吹き流しの如く、すぐ乾いた。しかし翌朝の朝礼で、その掲揚台の前に立った時は、申しわけないと反省した。

しかし一方、戦局が厳しく逼迫した中でも好奇心は強く、昼間単独で堂々と飛来するB29爆撃機が引く飛行雲を見て敵愾心を燃やして、必勝を信じた少年時代でもあった。原爆投下の前日の8月5日、私達2年生は防火帯を作る目的の建物疎開作業のため、土橋方面へ行った。それは暑く苦しい作業であった。明日は東練兵場での農作業に急に決まった。今日よりは楽だろうと安堵して、夜間に空襲警報が発令されたことも気づかず眠りこけた。明日の運命も知らずに。

( 昭和20年8月6日運命の日 ) 

その朝母が言った。「敏ちゃん、今日はあなたの誕生日ね。私は昨日あなたが行った土橋(爆心地から半マイル)へ行って建物疎開の後片づけをするから、帰ってから何かお祝いをしてあげる。」その声を後にして7時前に家を出た。その日、母は家主の一井の奥さんたちと国民義勇隊として出かけた。

妹の和子は古田国民学校へ登校した。父は、前夜空襲警報が発令されたため、1時間遅くてもよいのに通常とおりに会社に出勤した。私には広島駅北側の東練兵場での農作業が待っていた。

市内電車で相生橋(爆心地)を通りかかった時に、警戒警報のサイレンを聞いたが何事もなく、終点の広島駅で降りて踏切を渡っている時に、警報が解除されたことを通行人の話声で知った。この時は敵機の飛来を別に気に止めなかった。

作業現場に着いて点呼のため全員二葉山の方に向かって三々五々整列していた。その時B29爆撃機がいつもより低空で左側へ飛行しているのを見て、異常を感じた。さらに右上空にパラシュートが2,3個降下しているのに気づいた。また宣伝ビラ散布かと思いながら見上げていたら、先生が「上を見るな」と怒鳴った。

その瞬間、辺り一面黄色い閃光に包まれた。私は無意識に両手で眼と耳と鼻を覆って伏せていたが、どのくらいの時間が経過したか分からなかった。起きあがって回りを見た。暗かった。何が起こったのか。級友の顔もよく見えない。黄燐焼夷弾の直撃だったのであろうか。しかし爆撃の穴が見あたらない。西の上空を見上げると、B29が通り過ぎたと思われる辺りに黒灰色の積乱雲の塊のようなものが見えた。「きっと空中爆発したのだ。ざまを見ろ」と思った。

気が落ち着いてきたら、左頬に痛みを感じた。手を当てると水膨れができていて手で触ったために破れた。さらに右手の甲、左首も火傷していた。腹が立った。作業中止の声を聞きながら、避難のため二葉山の中腹にある東照宮あたりに登った。そこから市内を眺めて驚いた。日暮れか日蝕のように薄暗く、静まり返っていた。

父母のことが気になって、山を下りて市内に向かった。広島駅の方から負傷した人がぞろぞろと、こちらへ逃げてくる。練兵場内の鉄道引込線に停車していた列車の、機関車は立っていたが貨客車は横転していた。級友たちも三々五々集まってきて、空中爆発か殺人光線のような新兵器かと騒いでいた 。

ふと気がつくと 回りの枯れ葉が燃えだしたので、電車で一緒だった同級生の中村君と逃げることにした。今、私達は市の東にいるが、私の家は市の西にある。しかし市の中心部を横断することはあきらめて、迂回するために北に向かった。回りはよろよろ歩く負傷者や、重傷者を積んだ大八車・リヤカーで溢れていた。負傷者の中には腹が切れてハムのような桃色の肉が見える人もいた。皆黙って歩いている。私は悔しかった。B29がいつものように飛行雲を引きながら飛んで行った。

夢中で歩き続けて午後2時頃か、回りに避難者が少なくなって、太田川が見えた。家に帰らねばと気づいた。中村君と水中橋(増水時に水没する橋)を歩いて川を渡り、土手を市内方面に南下 した。土手の回りには負傷者が倒れていて、「水を、水を」と喘ぎながら求めていた。しかし誰かが「水をやるな。水を飲ますと死ぬぞ」と叫んだ。

午後5時ころ山陽線の線路に着いた。兵隊さんが立っていたが生きているのか死んでいるのか、服は焼けて身につけていたのはベルトと軍靴だけで、両手を前に垂らして動かずにいた。線路伝いに西に向かって鉄橋を渡り、西広島で中村君と別れて我が家へ着いた。

この辺りは家の倒壊はなかったが、何故か市内に面していない西側の屋根瓦はずり落ちていた。急いで私達の居住区の2階に上がったが誰もいなかった。天井板は垂れ下がり、畳は浮き上がり、窓ガラスは飛び散っていた。

暫く家の周りを探していると、隣保班の人が「あなたのお母さんは一井さんの応接室に居るよ」と教えてくれた。母は横たわっていたが私の顔を見て安心した様子だった。「火傷したのね。お父さんは無事で草津の変電所の社宅に居るから行って見なさい」。と言った。妹の和子は負傷していなかったが不安そうに母のそばに座っていた。私は変電所に行って父と会った。変電所の中は忙しく緊迫した状態で、私は子供心に父の責任感を理解して邪魔をしてはいけないと思い、家に帰って母に報告した。安心して三人で寝たように思う。大変な誕生日だった。

( 被爆後の数日間 )

その後の二、三日のことは余り記憶にない。父母は重傷だが生命に危険があるとは思えず、私は顔などの火傷だけで、妹は怯えているが無傷で大丈夫と思えた。非常用として庭に埋めてあった菜種油を掘り出して、頬・首・手の甲の火傷部に塗った。今でも夏の暑い時に、テンプラ油の匂いを嗅ぐと、当時のことを思い出す。

隣保班の人や会社の人、変電所の山本さんがたびたび来られて、食料や医療品(黄色いリバノールガーゼ・赤チン・軟膏)等を頂いた。家主の一井の奥さんが亡くなられたらしい。そのことを母が知っているのか気になった。

8月9日だったと思うが、火傷の手当をしながら母に言った。「私の学校と弟が通っていた学校がどうなっているか見てくる。」妹に母を頼んで市内に入った

私達が4月まで住んでいた東千田町周辺は見る影もない焼け野原であった。貯金局・日赤病院などのビルは崩れてはいないがひどい損傷を受けていた。弟の通った学校は、講堂か体育館かの鉄骨の残骸があるだけで、連絡所らしきものは無かった。この状況では弟は田舎に疎開していなかったら助からなかっただろうと思った。広島電鉄の車庫に電車の残骸が見えた。

つぎに私の第二中学校(西観音町、爆心地より1.8km)へ行って見た。校舎は殆ど焼け落ちていた。級友も何人か来ていたので被爆当日のことを話していると、古田校長先生が私達を見つけて来られた。顔や首に赤チン・ヨードチンキを塗り、手を包帯で吊していた私達を見て、つぎのように言われた。「2年生はみんな同じようにやられているな。あの時みんな上空を見ていたのだろう。それでも君たちは運がよかった。1年生は建物疎開に行って全滅したらしい。」私達は学級名・氏名を報告した。当分自宅待機となった。この日、市内で見た光景は悔しく情けないものであった。

家に帰ってみると、父は会社の車で運ばれて、一井さんの応接室に横たわっていた。父母に今日見たことを報告した。夜、訪ねてきた会社の人の話では、8月8日に福山市が焼夷弾攻撃を受けて、福山の本家が焼けたが家族は無事とのこと。父は「本家の蔵に疎開していた家財も焼けたか」と苦笑いしていた。

( 8月15日終戦の日 ) 

この頃父母は2階に移り寝たきりの状態であった。父が「今日の昼頃、重大放送があるから」と言うのでラヂオの前で放送を待った。天皇陛下の声を初めて聞いたが雑音が入って聞き取りにくかった。それでも私は日本が負けたらしいと感じて思わず「日本が負けた」と言った。父は「そんなことを言ってはいけない」とのみ言ったが、皆黙ってしまった。

その後、B29も飛来しなくなった。近くの広場では昼夜死体を火葬していた。当日、父が市内の会社から郊外の変電所までどのようにしてたどり着いたか、また母も市内から隣保班の人たちとどのようにして家まで帰ったかを聞かなかったし、何故か父母も話さなかったし、私もあの日のことを話さなかった。今でも心残りである。

( 父母の死 )

20日過ぎに能登原(沼隈郡千年町)の叔母が来たが父母は寝たきり、妹は幼かったので、私を叔母の家に連れて行ってくれた。そこで診療所へ行ったり、軟膏・赤チンを塗ったり、きゅうりを火傷部に貼ったりして治療しながらも、私は広島にいる父母や妹、学童疎開に行ったままの弟のこと、さらに学校のことも気になっていた。

30日の朝、御領(深安郡御野村)の伯父が来て、私の顔を見て、叔母と小声で何か話して 急いで自転車に乗って帰った。私はふっと予感した。叔母はすぐ、私と従兄弟を連れて松永駅(福山の近く)から汽車に乗った。車中、叔母は何も話してくれないし、私も聞くのがこわかった。汽車は満員で遅れている上、時々途中駅で長時間停車するので、広島に着いた時は
31日早暁であったと思う。小雨も降っているようだった。広島を過ぎて、デッキから灰燼になった広島の街を見ていると横川駅(広島の次の駅)の手前から急に辺りが明るくなった。よく見ると一面に無数の燐が燃えているではないか。このような光景は初めて見た。

ようやく西広島駅に着いた。急ぎ足で家に向かい、2階にかけあがると、親戚の方々が来ていた。 父母は別々の部屋に寝かされていた。母は私を見て笑顔を見せたが、その腕は紫色に腫れあがって、リンゲル・ブドウ糖などの注射を受け付けなくなっていた。父のそばに行くと 何か言ったようだが聞き取れず、にっこり笑ってくれた。叔母の家に行く時には、父母とも快方に向かっていると思っていたのに、叔母の家にいた1週間や十日くらいの間に何故急に悪くなったのか理解できない。

その時、母のそばにいた叔母が、「敏ちゃん、早く」と言った。私が母の枕元に寄ると母は、「兄弟妹、仲良くしてね」と言って微笑んで息を引き取った。安らかな顔だった。午前4時ころだったと思う。

父は周りの気配で母が亡くなったのを察したのかも知れない。そして自分の死期を悟ったのかも知れない。すでに声が出なくなっていたが周りの人に体を起こしてくれるように動作で頼み、東の方に向かい頭を下げて口を少し動かした。そして私やみんなを見て微笑んだ後、首がガクッとうなだれた。午前5時頃だった。父の唇の動きから察すると「テンノウヘイカ バンザイ」と言ったのだ、大往生だと周りの人が言った。

私は階段を降りて座り込んだ。涙も出なかった。母が最後に言った弟や妹のことなど頭の中になかった。2階から泣き声が聞こえた。上下町(甲奴郡)の伯父が降りてきて「何も考えるな」と怒ったような声で言って、私を2階に連れて上がった。父母は私が能登原から帰るのを待っていたかのように永眠したのだ。

9月1日、会社から棺が二つ届けられ近くの山畑で私達の手で火葬した。お坊さんを誰かが呼んできて、お経をあげてくれた。火葬後、父の遺骨を拾う時にガラスの破片がたくさんあった。

隣保班の班長の家に、本家の伯母とともに挨拶に行った。班長から、私の母は疎開作業に行った13人の中で最後に亡くなったと聞かされた。その男の人は私の火傷や服装を見て「二中の生徒ですか」と言った後、黙ってしまった。

被爆した人は、今元気であっても、放射能の影響でやがて髪が抜け、歯ぐきから血が出て死ぬるという噂が立っていたことを後日聞いた。両親は亡くなるし、戦争に負けるし、どうせ自分も敗血症で死ぬのだと、まるで死刑の宣告を受けて刑の執行を待つ死刑囚の心境になっていた。

以上


*注1) 学童疎開:
戦争末期に、空襲が予想される市街の国民学校(現在の小学校)の生徒の3,4,5,6年生を田舎に疎開(避難)させた。縁故のあるものは縁故疎開、縁故のない者は集団で寺などにクラスごと移転した。疎開した児童は原爆に会わず助かったが、市内に残った親族が原爆死したため孤児となった児童がいる。これを原爆孤児と呼ぶ。

*注2) 建物疎開:
市街が焼夷弾攻撃を受けることを予測して、防火帯・避難路を作るために木造建物を壊した。広島の場合、16,000棟の民家が取り壊された。またこの作業に、中学1,2年生、隣保班(主として主婦)が動員されて、多くの人が犠牲になった。市民の生命を守る筈の防火帯であったが、多くの市民の生命が失われる結果となった。


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