原爆とボクたち

広島平和記念資料館の案内

2007.06
平和のためのヒロシマ通訳者グループ編集


東館には被爆前後の広島の歴史を中心に紹介してあります。
被爆者の遺品や被爆資料を展示してあるのは西館です。
もともと資料館としては西館だけでしたが、被爆の悲惨さ・平和の尊さを伝えるためには、
核兵器も非人道性だけでなく、なぜ広島と長崎が被爆地となったか、その理由と歴史を知ることも必要だということからも、東館の展示となりました。      


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「地球平和監視時計」

地球平和監視時計

この時計の針の陰は、原爆爆発の時間を示しています。上段の数字は、広島原爆投下からの日数を示し、2段目の数字は、最後の核実験からの日数を示しています。2006年10月に北朝鮮が地下核実験を実施したと発表しました。

「ローマ法王の平和アピール碑」 

ローマ法王の平和アピール碑

1981年に、故ローマ法王ジョン・ポール2世が「平和アピール」するためにここを訪れました。それを記念してこの碑が建てられました。「平和アピール」の一部が彫刻されています。


<< 東館1階 >>

原爆投下に至る広島の歴史、廃墟のヒロシマについて、模型、映像、パネルで紹介しています。

「展示の概要」

展示の概要

それでは、まず資料館の展示の概要を説明したガイダンス(ビデオ)をご覧下さい。

「広島の歴史」
400年前、広島は、城下町になりました。
100年前、広島では、99%の子供達が学校へ行っており、とても教育熱心な街でした。
当時、日本には、師範学校が二つありました。一つは、東京。もう一つは、ここ広島にありました。

「海外派兵のための宇品港(1894年の日清戦争)」
広島に、第5師団が置かれ、広島城を中心に軍事施設が次々と置かれました。
鉄道が、東京から広島まで開通しました。
広島駅から宇品港を結ぶ軍事鉄道が17日間の突貫工事で造られました。

「軍事施設」
日清戦争により、市内は、空前の好景気。軍事施設は急増しました。
軍の施設は、広島城、広島駅、宇品港周辺に集中し、当時の広島市の約10%を占めました。
  主な施設
陸軍糧秣廠、 陸軍被服廠、 陸軍兵器廠

「広島に大本営設置」 1894年
日清戦争の間、広島に大本営が設置され、明治天皇も広島に滞在されました。
帝国議会も開かれるなど、臨時首都の観を呈していました。

「日韓併合」
1910年、日本は朝鮮を併合して多数の日本人が朝鮮へ移住しました。
一方、職を失った多くの朝鮮人が日本へ移住しました。

「日中戦争(1931年からの15年間)」「ハワイ真珠湾奇襲攻撃(1941年)−太平洋戦争」
満州事変を引き金に、日中戦争が始まりました。
1941年、真珠湾の奇襲から太平洋戦争に突入しました。

「広島第五師団」
まず広島第五師団が出動。そして、全国各地から多数の兵隊が広島市に結集し、
連日、宇品港から戦地へ船で輸送されました。

「南京占領・ちょうちん行列(1937年)」
日中戦争の初期、日本軍は、中国の各都市を占領していき、1937年、首都南京を占領。
「聖戦」を信じていた国民は、喜び、広島市民もちょうちん行列をし、勝利を祝いました。
しかし、日本国民も、広島市民も日本軍が、たくさんの中国人を虐殺した事は知りません
でした。犠牲者の数はいくつかの説がありますが、中国側は、30万人と言っています。

「国家総動員法」(1937年)
国家総動員法により、全国民が軍事体制下に置かれました。
戦局が、激化するにつれ、生活物資が不足するようになり、米、燃料、日用品が、配給制・切符制になりました。
「贅沢は敵だ」「欲しがりません。勝つまでは」というスローガンの下に耐乏生活を強いられました。
(当時の状況を表す言葉)
町内会、隣組、防火演習、防空壕、勤労奉仕、赤紙、消火訓練(バケツリレー)、
防空ずきん、竹やり訓練、日用品、配給制、切符制、衣料切符、千人針、金属回収令、
滅私奉公(私欲、私情を捨て、天皇のため国のため、力を尽くすこと)
  
「学徒動員令」
1944年8月、「学徒動員令」が発令され、大人の男の人達が兵隊に取られ、工場や農場などで働く人が足らなくなり労働力を補うため学生も軍需産業の工場で働いたり、畑を作ったりしました。
日本の都市は木でできた建物が多かったので、アメリカ軍は「焼夷弾」という火事を起こすための爆弾を空襲に使っていました。
あらかじめ家を壊しておいてそこから先に火が燃え広がらないようにする作業を「建物疎開」といいました。
1945年7月、軍の命令により、市の中心部を東西に貫く幅100mの区域に大きな防火帯を作る作業に、まだ動員されていない中学校、女学校の1年生・2年生が従事することになりました。
8月6日、8,400人あまりの中学生達が、この作業にあたって6,300人が犠牲になりました。
この中学生達の遺品が、西館にたくさん展示されています。

「学童(小学校3−6年生)の集団疎開」(1945年4月)
本土への空襲が激しくなると子ども達は親戚の家などへ疎開しました。
疎開する田舎のない子ども達は、国民学校(小学校)3年生から6年生の約8,500人が、
県内のお寺や神社に先生と共に疎開しました。
疎開した子供達のうちの多くが原爆孤児になりました。

「戦況悪化」
市民生活が窮乏する中で,国内の空襲も激しさを増し,次第に重苦しい敗色に包まれていきました。
広島はほとんど空襲を受けず無傷のまま残っていました。

「原爆使用の理由」
アメリカ軍の犠牲者を少なくしたいと考えていました。
連合国軍は、ヤルタ会談で,ドイツの降伏後3ヶ月以内に、ソ連が対日参戦する事を極秘に決めていました。
アメリカはその前に原爆を日本に投下し、戦後、ソ連より優位に立ちたいと考えていました。
原子爆弾を実践で使い、効果を測定したいと考えていたようです。
ドイツ無条件降伏―1945年5月7日
1942年8月、アメリカは原爆を作るためにマンハッタン計画を発足させました、
原爆投下3週間前、アメリカはニューメキシコ州の砂漠で世界初の核実験に成功しました。
   
「広島が目標に選ばれた理由」

広島が目標に選ばれた理由

都市の大きさや地形が、原爆の破壊能力を実験するのに適当であり,原爆投下の破壊効果を確認しやすかった。
戦争末期、日本の主要都市はアメリカ軍の空襲でほとんどが壊滅状態でしたが,広島は無傷で残されていました。また,軍隊、軍事施設、軍事工場が集中していました。

「原爆投下前の広島中心地」(パノラマ)

原爆投下前の広島中心地

この二つのパノラマは、原爆が落とされた爆心地付近の街、中島地区の被爆前と被爆後の様子を200分の1のスケールで再現したものです。
あのライトの辺りが、現在地です。ですから,この中央の逆三角形の地帯と、広島産業奨励館の周辺が、被爆10年後、現在の平和記念公園になりました。
この地区は、原爆投下前、中島地区と呼ばれた6つの街がありました。
江戸から明治・大正にかけて、市内有数の繁華街として栄えた歴史ある街でした。
映画館、遊戯場、旅館、飲食店,病院、商店などが軒を連ねていました。
寺が10、神社が1つあり,人家が密集していました。
この建物は,広島県産業奨励館で、現在の原爆ドームです。チェコのヤン・レツル氏の設計でとてもモダンで美しい洋館建物でした。
パノラマの南側には、建物が解体されているところがありますね。これは、防火帯を作るための建物疎開作業中のものです。
8月6日は、現在、平和公園になっているところで、
計11校、約1,900人の12歳、13歳の中学校、女学校の生徒たちが、作業をしていました。
このユニークなT字型の橋は、原爆投下目標になった相生橋です。
この橋から280m離れた島病院の上空約600mの所で原爆は爆発しました。

「爆撃直後」

爆撃直後

こちらは被爆後のパノラマです。あの赤い玉は、爆発直後の原爆です。
放射線は、爆発とほぼ同時に放出されていました。爆発から3秒間、この火球から熱線が放出されると同時に、爆風と衝撃波が地上を襲いました。
熱線の影響で爆心地付近の地上の温度が摂氏3,000度から4,000度になりました。真夏の暑い時の約100倍の温度になったのです。
ほとんどの建物は瞬時に倒壊炎上し、わずかに残った建物は主に鉄筋コンクリート造りで、内部は全焼しました。
これは、原爆ドームです。ここで働いていた方は全員亡くなっています。戦後「ノーモア・ヒロシマ」のシンボルになりました。こちらは、本川国民学校です。上級生は疎開していました。
ここには、約260人の1、2年生の児童がいました。たった一人だけ、少女が地下の下駄箱の近くにいて助かりました。
こちらは、燃料会館で、当初は、呉服店でした。現在はレストハウスとして利用されています。原爆投下後、37人いた職員のうち、たまたま、書類を取るため地下室にいた男性1人が助かっています。
この近くで、建物疎開作業をしていた約1,900人の子供達は、全員亡くなりました。
西館には、ここで亡くなった子供達の遺品も展示してあります。
この2本の川は、多くの死体で埋まりました。

「原爆ドームの模型」

原爆ドームの模型

実物より小さく(73%)作られています。

「核実験に対する抗議電報」

核実験に対する抗議電報

原爆ドーム模型の壁面には、約600枚の抗議電報が貼られています。
核実験が行われる限り、広島市長は抗議電報をこれが最後の抗議電報になることを願いながら打ち続けます。

「爆撃後の廃墟」(写真)
この写真は原爆投下2ヶ月後、プロのカメラマンによって撮られました。
しかしその時すでに道路上にも川の中にも死体ななく、さらに原爆投下1ヵ月後に大きな台風が広島を襲い、市内の汚物を洗い流した後の撮影でした。したがって、原爆と通常爆弾の被害の差は2ヶ月の間に小さくなりました。

「市内電車の復活」(8月9日、己斐―西天満町)
懸命な復旧作業により、被爆3日後には、己斐から西天満町間を折り返し運転ながら再開して、不幸のどん底にあった市民を大いに力づけました。

「原子爆弾であるとの判定」
8月8日頃、広島赤十字病院の密封していたレントゲンフィルムが感光しているのが発見されて、新型爆弾が原子爆弾だと判定されました。

「赤十字病院の壁」
爆心地から南に1.6kmのところにあった広島赤十字病院の壁には、たくさんのガラスの破片が刺さっていました。
原爆の犠牲者の内、60%は熱線、火災で、20%は放射線で、そして残りの20%は爆風により、この建物のようにガラスなどが刺さって亡くなりました。


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「混迷からの復興」

「バラック」
焼け残った廃材を集めて、バラックをたて始めました。

「原爆孤児」

原爆孤児

集団疎開していた小学校3年生から6年生までの子供達の多くが原爆孤児になりました。
疎開先から帰った子供達を待っていたのは焼け野原に変わり果てた広島の街、家族の死、戦時中よりも更にひどい食料事情、軍国主義から民主主義への180度の転換でした。
6,500人ともいわれている孤児は橋の下や広島駅前などで寝泊まりし、靴磨きやたばこの吸殻を拾ったりして生活していました。
戦争で親を失った子ども達はいくつかの施設に収容されましたが、収容を嫌ったり、手が回らずおちこぼれた少年達は、街頭をさまよう孤児になりました。

「ABCC(原爆調査委員会)」
1951年、比治山にかまぼこ型の原爆調査委員会(ABCC)が建設されて、原爆の人体におよぼす影響の研究は、ABCCの手で独占的に行われました。しかし、被爆者への治療は全く行われませんでした。
1975年に日米対等で管理・運営される事になり、放射線影響研究所という名称になりました。

「広島原爆乙女の治療」(25名、1955年)

広島原爆乙女の治療

1955年5月、25人の原爆乙女はケロイドの治療のため渡米しました。
43名の公募から、25名が選ばれ、彼女達は、「原爆乙女」と呼ばれました。
彼女達は、アメリカに1年半滞在し、アメリカ人の愛と善意に接し、精神的に癒されました。
原爆乙女の渡米は、核兵器の非人道性をアメリカ国民にまざまざと実感させるものでした。
帰国後も、その絆は長く続き、乙女達の数名は再渡米し、3人はアメリカで幸福な家庭を築きました。
この事業が、被爆者への関心を高め、世界に広島の惨劇を知らせ、理解と協力を与えた意義は大きいです。

「第五福竜丸」
1954年3月1日、アメリカは南太平洋のマーシャル群島のビキニ環礁で水爆実験を行いました。ビキニ諸島から、100kmはなれた所でマグロ漁をしていた第5福竜丸が「死の灰」を浴びました。23人全員が、火傷、脱毛、皮下出血など激しい急性放射能症で入院し、半年後、一人亡くなりました。
東京杉並区の魚屋のおかみさんが立ち上がり、杉並アピールが出され、水爆禁止の署名運動が始まりました。
この署名運動が引き金になり、原水爆禁止運動が燃え上がりました。

「被爆者の健康診断」
戦後、被爆者は一般的な福祉制度の援護のみで、特別な援護を受けることはなかったのですが、1957年4月、原爆医療法が施行されました。
広島市内では、同年6月から被爆者健康手帳の交付が始まりました。
被爆者健康手帳を持つ人は、国費による健康手帳と医療が受けられるようになりました。
被爆から半世紀を経過した今日でも、被爆者健康手帳の申請は絶えることはありません
理由として「健康で、必要と思わなかったが、病気になり将来が不安になった。」や「子供の結婚のため、被爆したことを知られたくなかった。」などがあります。
このことからも、原爆被爆者の根の深さがうかがえます。
1968年原爆特別措置法が制定されました。
1994年、ニ法が一本化され、新たに被爆者援護法が制定され、国の責任で被爆者に対する保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護対策が講じられることになりました。

*被爆者とは―原爆医療法によれば、被爆者は、次の4つに区分できます。
  ・直接被爆者(爆心地から約4kmまでの範囲、黒い雨の降雨地域で被爆した人)
  ・入市被爆者(原爆投下から2週間以内、爆心地から2km以内。
  ・死体処理及び救護にあたった人
  ・胎内被爆者


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「核時代」
広島・長崎への原爆投下により、世界は核時代に入りました。
人類は核兵器の出現で破壊の瀬戸際に立たされたのです。
1968年「核をつくらず、持たず、持ち込ませず」の非核三原則の決議が採択され、国是となりました。

「核兵器」
核兵器には、原子爆弾と水素爆弾の2種類があります。
1954年3月1日にビキニで実験された水爆のように、広島型の1,000倍以上の威力のものから、中性子爆弾のように10分の1程度の小型のものまであります。

原爆は、ウラン(またはプルトニウム)の核分裂連鎖反応を利用した核兵器です。
広島型原爆は、臨界量以下に分割したウラン235を細長い円筒の両側にセットして、一方のウラン235を爆薬の力で反対側のウラン235に衝突させ爆発的な連鎖反応を引き起こしたものです。
一方、長崎型は、球体内部に設置した、臨界量以下に分割したプルトニウム239を、火薬の力で、球の中心に向けて圧縮し、密度をたかめて核爆発に導こうとするものです。

「核兵器運搬手段」
核兵器を運ぶ手段は、爆撃機とミサイルがあります。
ミサイルで運ぶ手段は、核弾頭と呼ばれ短距離ミサイル、中距離ミサイル、長距離ミサイルの3種類があります。
これらのミサイルの発射は、陸上からはもとより、水上からあるいは、潜水艦からも可能であり、とくに潜水艦はひそかに海中から弾道ミサイルを発射できます。
大陸間弾道弾 (ICBM) <intercontinental ballistic>   
中距離弾道弾 (IRBM) <intermediate-range ballistic>
中距離弾道ミサイル (MRBM) <medium range ballistic missile>
巡航ミサイル (SLBM) <cruise missile>

「C3I システム」
核戦争のために使われる指揮(Command)、管制(Control)、通信(Communication)および諜報(Intelligence)のことを、頭文字をとってC3I システムといいます。
日本列島において、北海道から沖縄まで、アメリカ軍によるC3I システムが存在します。
青森県の三沢基地には、”象の檻”と呼ばれる直径400mの楕円形アンテナがあって、すべての方向からの電波情報に聞き耳を立てています。

「核の冬」 
1983年、アメリカの天文学者カール・セーガンら100人の発表によると、「もしも、大規模な核戦争が起これば、核爆発による直接的な被害を受けるだけでなく、大火災によるススと核爆発に伴う放射線のチリが、太陽光線をさえぎり、気温が著しく低下し、世界的な全面戦争では、地球的規模で氷点下45℃が、数ヶ月続く」といわれています。

「核の拡散」

核の拡散

これは、地球です。ここが、北極です。このオレンジ色のロケットのようなものは、核弾頭の数を表わしています。
核弾頭が少し取り除かれているのが分かりますか。核弾頭が削減されると、この地球の上にある核弾頭も取り除かれます。
これらの核弾頭が、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国と5つの核大国にあるのがわかりますね。

「平和記念式典と平和宣言」
毎年、8月6日に平和記念公園で平和記念式典が催され、歴代の広島市長が世界へ平和宣言を読み上げます。この式典は1947年に始まりました。

[平和への歩み]
広島には、被爆体験証言者がいます。自分が体験した事を戦争を知らない世代に語り継ごうとしているのです。
修学旅行シーズンには、全国から訪れる小・中・高校生に、自分の体験を話している被爆者の姿を広島平和記念公園内でいつもみかけることができます。

「灯篭流し」
被爆前、広島を流れる7本の川は、市民の心を和ませ、また、子供達にとっても大切な遊び場でした。
閃光に焼かれた人達が水を求め、川や、土手そして防火用水でもたくさんの人達が亡くなっていました。
8月6日の夜、元安川の原爆ドームの対岸に行けば、誰でも灯ろう流しに参加できます。

「ヒロシマの祈り」
広島には、たくさんの子供達が両親や学校の先生たちと、日本中、世界中からやってきます。20世紀半ば、「原子砂漠」になったこの広島の地が、今や子供達が「平和」について考える大切な場所になっています。

「原水爆禁止運動」
1954年3月の「第5福竜丸」被爆事件は被爆地だけでなく、日本列島全体に強い衝撃をあたえ、この事件をきっかけに、原水爆禁止運動が生まれ、行政も巻き込む、国民的な運動になりました。
5月、東京で「署名により原水爆禁止を世界に訴えよう」という「杉並アピール」を発表。
広島でも、原水爆禁止広島大会開催後の署名運動で、広島県民から100万以上集まりました。
1955年8月6日、世界各国からの代表を迎えて、広島で、第1回原水爆禁止世界大会が開らかれました。

「核実験への抗議」
座り込みが行われるようになったのは、1973年7月20日が最初で、フランスの行った核実験に抗議したものでした。
原爆で亡くなった人達と共に座り込みをするということで、慰霊碑を背にして世界に向けて抗議を表明しています。
核開発は依然として続いており、現在はアメリカ・ロシアで臨界前核実験が行われているので、座り込みは今なお続けられています。

「被爆アオギリ」

被爆アオギリ

「75年間草木も生えぬ」と言われた焦土の中で、枕崎台風が去ったあと好天が続き、広島の焼け野原のあちこちで青い草木が生えはじめました。
アオギリが、爆心地から、1,3 km 離れた広島通信局にありましたが、熱線を受け、部分的にケロイドになってしまいました。しかし、この木にも青い葉がつき、被爆者に生きる希望を与えてくれました。


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「きのこ雲の写真」
これらのきのこ雲の写真は、地上のいろいろな場所から撮影されました。あの日の朝はよく晴れていて、青空の中に遠くからでも見えました。

「被爆者の状況(模型)」

被爆者の状況(模型)

市内では、即死を免れた負傷者が助けを求めて瓦礫の中をさまよいました。すさまじい熱線は衣服も身体も焼きました。剥けた皮膚がボロ切れのようです。実態はもっと悲惨だったと生存者は言っています。

「犠牲者の遺品」
この時計は爆発の時間に止まっています。あの悲劇の物言わぬ証人です。
建物疎開で作業していた学生たちの遺品です。8,400人の学生が市内で作業していて、6,300人が犠牲となりました。彼らの殆どは12才から14才です。被爆後、彼らの家族は子供たちを捜して、連日、焼けた町を歩き回ってこの遺品を見つけました。多くの場合、焼けた死体は見分けがつきませんでした。これらの遺品は、人々の悲しみと怒りを私たちに伝えています。

「原爆“リトルボーイ”の模型」

原爆“リトルボーイ”の模型

これは広島に投下された原爆“リトルボーイ”の実物大の模型です。長さはわずか3メートルです。核分裂材料はウラニウム235で、少し多い目の50kgを搭載していたそうです。

「市内のパノラマ模型」

市内のパノラマ模型

この模型は1/1000スケールで直径 5.5km の市内を示しています。広島は太田川三角州地帯に発展しました。地形は平坦なので、爆撃の被害は広がります。このことが広島が爆撃の目標になった理由の一つです。原爆の大きさは、このスケールでは、わずか3mmですが、それがこのように広範囲の廃墟を作ったのです。そして現在の水素爆弾はこれの1,000または2,000倍の威力があります。
原爆は地上600メートルで爆発しました。この模型の中の、あの赤い火の玉は、1秒後に直径280メートルになりました。それはこの資料館の建物よりも大きく、火の玉の表面温度は
5,000℃で、まるで太陽のようです。爆心地に達した地上温度は3,000-4,000℃です。
爆心地付近では爆風は音より早く伝わりました。(440m/s)

あの白い三角のマークは、この資料館の場所を示しています。このあたりの温度は2,000℃で、鉄が溶ける温度より高かったのです。数秒後にはこの恐ろしい熱線が市内を襲いました。2kmの地点で衣服も身体も焼けました。
この資料館の地点での最大風速は280メートル/秒でした。その威力は計り知れず、殆どの建物は中に多くの人がいるまま崩壊し燃えました。

当時、市内には35万人くらいの人がいて、14万人がその年末までに原爆の障害で亡くなりました。そのうち少なくとも11万人は子供を含む市民でした。原爆は兵士だけを殺傷できません。
3日後に、廃墟の中を路面電車が一部区間でしたが運転を再開しました。負傷し落胆していた被爆者は、動く電車を見て勇気つけられました。この経験から広島の人々は電車を愛しています。現在広島は、日本で最も電車が活躍しています。

「伸ちゃんの三輪車(爆心地から900メートル)」

伸ちゃんの三輪車

これは3才の男の子の三輪車です。この子はお気に入りのこの三輪車で遊んでいて焼死しました。彼の父は思いました。もし遠くの墓場に葬れば、この子がさびしがるだろう。彼は裏庭に穴を掘ってこの三輪車とともに息子を埋葬しました。40年後、父は息子を墓地に移し、この三輪車を資料館に寄贈しました。

「3人の中学生の遺品(爆心地から900メートル)」

3人の中学生の遺品

これは軍服ではなく中学生の制服です。一緒に建物疎開の作業をしていた3人の生徒の服を寄せ集めたものです。

「熱線による被害」
人間の影(爆心地より260メートル):銀行の入口の敷石に坐っていた人の影です。周りの敷石の表面は、熱線によって白く変色しています。
焼けた屋根瓦(爆心地より600メートル):瓦の表面は溶けて泡立っています。この泡立ちを再現するには、バーナーで10秒間あぶる必要があります。この地区にいた人々は、そのような恐ろしい熱に曝されていたのです。

「爆風による被害」



鉄製扉(爆心地より2.67km):爆風により曲がっています。
身体の中のガラスの破片(爆心地より1.5km):爆風によって粉々になり音速の爆風で飛散して人々の身体を傷つけました。ガラス破片は人体に突きささったまま、何十年も経過した例があります。

「高熱火災による被害」

高熱火災による被害

火の玉の温度は非常に高く、加熱された大量の空気は上昇してきのこ雲をつくりました。
地上では周囲から爆心地へ空気が吹き込んで、きのこ雲が煙突となって、市内は巨大なストーブと化しました。超高温の火焔は、ガラス・陶器・金属などすべてを溶かしました。

「放射能による被害」
原爆が通常兵器と根本的に異なる点は放射能の放出です。放射能は人体に入り、細胞を破壊し、臓器に致命的な損傷を与えます。
黒い雨の跡がついた壁(爆心地より3.7km):爆発から30分後に市の北西部に黒い雨が降り始めました。その雨は高濃度の放射能を含んでいたため被害は広がりました。

「急性障害」
被爆者の多くに、高熱・下痢・嘔吐・喀血・抜け毛などの急性症候がありました。爆心地から1km以内で直接放射能を浴びた人は致命的打撃を受けました。
「後遺症」
放射能障害は、何年後か、何十年後でも発病します。多くの被爆者は今でも被爆の影響に苦しんでいます。白血病・ガン・ケロイド・緑内障など後遺症と言われています。これらは放射能障害の恐ろしさを示しています。

「佐々木禎子(ささきさだこ)」

佐々木禎子

禎子は2才の時、爆心地から1.7kmの地点で被爆しましたが、外傷はなく元気に育ちました。
しかし10年後白血病になりました。折鶴を千羽折れば願いが叶って回復するという言い伝えを聞き、折り続けました。彼女の願いは叶わず、8ヶ月の闘病生活のあと、1955年10月に、1,300羽の折鶴を残して12才で死去しました。
ここに禎子の折鶴があります。この悲しい知らせを受けて、級友たちが禎子とほかの原爆で亡くなった子供たちのために碑を建てる運動を始めました。日本全国の3,000の学校と9カ国の外国から寄付が集まりました。この基金により、原爆の子の像が平和記念公園内に建てられました。この話によって、折鶴は平和のシンボルとなりました。禎子の物語は多くの国で出版されため、平和を願う人たちが折鶴を持って国内外からこの碑に絶えず参集しています。

「救援活動」
原爆投下後、多くの人が救援のため、あるいは家族を探すため、市内に入りました。その人たちは残留放射能に曝されました。今日でも原爆の後遺症に悩む被爆者がたくさんいます。現在、広島と長崎合わせて、26万人以上います。

「被爆者の描いた原爆の絵」

被爆者の描いた原爆の絵

戦後30年経て、被爆者が絵を描くようになりました。3,000点以上の絵がこの資料館に保管されています。

「被爆証言」

被爆証言

証言ビデオテープを通して、被爆者が被爆体験を話しています。10人の証言者の話が聞けます。一人3分に編集されています。英語のサブタイトル付です。


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