旧制広島県立第二中学校23期生 ポプラ会のホームページ

トピックス

会員同士の小会合、ゴルフなどのスポーツ,囲碁、将棋、ゲーム、または野菜作りの作物自慢、小旅行の思い出等々、日常のちょっとした出来事をこの欄に載せてみませんか。紙の写真でよいですから、連絡先まで送ってください。この欄に掲載します。

 
田淵廣和君のエッセイと近影
トピックス欄初めての個人としてのエッセイを頂きました。感謝します。同じ5学級、大竹在住という学縁?地縁
という良縁に恵まれたお蔭か、新出君には、いつもながらお世話になりましす。
私の酒好き人生
田渕廣和
今年ももうすぐ師走、日々寒さも加わってきましたが、同期の皆さんお元気ですか。
同じ大竹市内に住む新出兄から、われらが二中ホームページへの投稿を強く勧められ、私が卒業した昭和十九年卒業生の被爆五十周年記念文集「十四歳・平和のいしずえ」への私の寄稿「戦後50年目の人生記録・雑感」のなかの”お酒談義”の部分を披露させていただきます。

被爆後当分の間、放射能の害毒を体内から排出するためには毒ダミ草を煎じて飲むのが良いとか、あるいは、酒を飲むのがよいとかいう俗説が、盛んに流れた。私自身も、酒好きであった祖父の遺伝子を受け継いでおり、酒をおいしく飲める体質であったところへ、前述の俗説が流行したので、父母も、未成年者であった私の飲酒(杯4〜5杯位)を大目に見てくれた。
昭和24年、米駐留軍の日本民主化政策の一環として、中学校・高等学校の再編と学区制が行われたため、私は、陣場侃爾さんたちと一緒に、二中が改組された芸陽高校2年生を経て、新設されて間もない大竹高校3年生に強制編入された。このことでは、今でも、国の文教政策への割り切れない思いが残っている。
大竹高校時代、陣場さんほか同期生10人位と共に、校舎内ですき焼きパーティーを開き、体操の先生を招待して酒を飲んだことがあった。もう時効であるから書かせて戴いたが、当時は、先生が未成年者である生徒の飲酒を、時には大目に見て、一緒の酒を飲んで歌って下さる良き時代であった。
私は、昭和25年に大竹高校を卒業してから、同年5月、広島県庁lへ就職した。
以後、平成元年3月の定年を迎えるまで、大竹駅から広島方面へJRで通勤する堅苦しい公務員生活が続いた。そのうち、昭和47年4月から半年間、研修のため東京で生活したが、そのほか、広島県庁でいろんな勤務先・勤務内容を経験させて戴き、関係の方々に大変お世話様になった。同時に、酒の飲み方について、多くの先輩からご指導を賜ったお陰もあって、私は酒好き人生を歩むことになった。この酒好き人生はまだ続いており、おそらく、これからも変わりないであろう。広島の駅前「清中店」では、今も気楽にツケで飲ませて貰っている。
昭和27年4月、勤務を続けながら、広島大学政経学部二部に入学し、昭和32年3月、同学部を卒業したが、大学生活でも、酒との縁は強まるばかりであった。酒のご縁で、多くの友人との出会いがあり、生涯の友人を得ることもできた。
昭和36年4月に結婚したが、それまでの暴飲と無理な独身生活の報いが出て、急性肝炎になり、新婚後三か月間、療養生活を送らねばならなくなった。妻には、大変な心配をかけてしまった。これで、妻に対しては決定的な弱みができて、頭があがらなくなった。
それからは、常に体調を意識しながら、飲みたいときに飲みたい量を飲むようになり、また、できるだけ休肝日を設けるようにしてきたので、再度、肝炎で入院することはなかった。しかしながら、飲みすぎて広島からの帰途、大竹駅を寝過ごしてしまい、岩国や大畠まで行って引き返した失敗談は、我ながら呆れるほど多くなっていった。
いま振り返ってみると、「よくぞ今日まで命があったことよ」という感じである。酒の神様あるいは仏様が、無事に私を生かして下さっていることを感謝せずにはいられない。

さて、今年・平成29年も残すはあと一月余となりました。同期各位のご健勝を心から願いながら、筆を措きます。
 
酒談義に似合わないが被爆証言活動もしておられる面もあるのが最近の姿に似つかわしい。
(なおこの写真は羽村市制作のyoutubeより抽出したので余計な文字記号が入りお詫びします)


原爆報道、変わらぬ使命(中国新聞、浅野さん)
 
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2017年二中原爆慰霊祭あいさつの取材(朝日新聞)
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2017年8月5日羽村市青梅市中学生ピースメッセンジャー
今年も8月5日、国際会議場地下2階コスモスで二中23期生6名、地元から女学院中学校から約10名参加してもらっていた。
今年は「被爆体験談語り」として質疑応答ふくめて1時間30分証言活動をして午前中で終わった。そのあと、すぐそばにある
二中慰霊碑に各グループ単位で花束を供えてもらった(原爆慰霊祭のページ参考)。
なお国重君が突然の欠席で、急きょ新出君が、2グループ担当した。ご苦労でした。
(写真。動画は羽村市青梅市にご提供頂いたものです)
 
ピースメッセンジャー参加者全員
 
各グループの被爆体験語りの風景1(小畑、田淵、新出君らの姿が見える)
 
各グループの被爆体験語りの風景2(塚本、山本、浅野、新出君らの姿が見える)
 
証言者:左から 小畑、塚本、山本、浅野、新出、田淵の諸兄


2017年8月5日羽村市青梅市中学生ピースメッセンジャヤー活動
 
碑(広島県立二中一年生全滅の記録)の英訳版が出版されました
 
芸陽観音同窓会事務局が英訳版を各国駐日大使館に寄贈して礼状が来た事について
中国新聞が取材、掲載した。
   I S H I B U M I
A memorial to the atomic annihilation of 321 students of Hiroshima Middle School

Hiroshima Television Corporation
Translated by Yasuko Claremont and Roman Rosenbaum
Published by POPLAR Publishing Co., Ltd.

6 August 1945
We want to let people all over the world know
What happened in Hiroshima on that day.

The story of the annihilation by the atom bomb of 321 first-year students and their four teachers from Hiroshima Nitch?.
For over 45 years Ishibumi has been read in Japan. Now it’s in English for the first time!

With the nuclear threat spreading
A Japanese bestseller
Now translated for the world to read
                 

These are the words of children looking towards a future, even as they lay dying.

‘We are all doing the same work as soldiers fighting on the battlefields.’
‘Long live the Emperor, banzai, Mum!’
‘Hey, let’s go for a swim tomorrow!’
‘Strike the B-29s! Win, win Japan!’
‘The first-term results I got the other day were pretty good, weren’t they?’
‘When I recover, I will take my revenge.’
‘I can see Mum, that’s all I want.’

(From the “ISHIBUMI”)


 

もう一つの慰霊碑
 

この慰霊碑は現在は、二中原爆死没者慰霊碑の横に置かれて古田校長の追悼の和歌の碑として
詠み継がれているが、慰霊碑と名乗るものを建てることがはばかられる時代があったようで、
その時代のものと思われる。

旧制県立広島二中校舎の最期
2年9学級(1年3学級)米田 璞君の思い出

怪我のため、東練兵場でなく二中校舎に登校した米田君は8時15分にはちょうど運動場に出ていて、校舎の方を向いて、立っていた。突然の大爆発に、見たものは、2階建ての校舎が音を立てて崩れ落ちる棲ましい様子であった。一瞬のことの様に思えた。しばらくして、鉄筋コンクリート建ての講堂の屋根が落ちて行ったのが遠くから見えた。間なしに、小使い室があると思われる方角から、火の手が上がり、見る見るうちに倒れた校舎に火が燃え移った。
その頃、M君とY君は、2年生の教室のある2階から階段を下りている途中であった。突然の轟音とともに、校舎が揺れ、天井の梁が落ちてきた。あっという間にY君は大きな梁に挟まれて身動きできなくなってしまった。それを見たMくんは、必死にに梁を取り除こうとしたが、びくともしない。そのうち、外から火が近いてくるのが見えた。それでもM君は必死にY君を助けようと
梁に取りついていたが、火はいよいよ近くに来て、危ない状態になった。それを見てY君は、「もう自分はよいから、君だけ逃げろ」とM君に言ったという。足の悪いM君は涙ながらに、必死にその場を離れて、号泣しながら校庭に出てくるのを見つけた米田君が事情を聞いて、初めてその理由を知ったという。

そのあと、教員室のほうに行ったら、教頭の唐崎先生が亡くなって居られて、中谷先生(あだ名がテボ)が残った生徒の指揮を取られた。とにかくまず安全と思われる西のほうに逃げろという指示であった。

浅野温生君八月八日に二中校舎焼け跡に入る

 我われ同期の米田兄は、8月6日、観音町の二中のグランドにいて、母校校舎が倒壊・炎上した経緯を目撃、同期のY君が倒壊校舎の下敷きとなり、校舎も炎上、同君が焼死した模様を詳細に証言、記述しているようだが、小生は翌々日の8日、母校の焼け跡を訪れているので、その日の体験も追記しておく。
 我われ同期生の仲間が還暦を迎えた平成3年、被爆体験記「ポプラは語り継ぐ」をまとめているが、あの原爆が投下された8月6日、私は東練兵場の芋畠の草取り作業をサボって
上蒲刈の祖父宅へ行く途中、呉軍港沖の旅客船の中だった。
 原爆のキノコ雲は望見したのだが、諸兄のようなヤケドもせず、翌7日、半壊状態の皆実町の自宅に帰り、翌々日の8日昼前、母校の焼け跡を訪れた。
 いつもは西側の正門から入るのだが、閉まっているはずの裏門が壊れていたので、近づくと門柱に「死体収容所」の張り紙がしてあった。門を入ると大正風のモダンな2階建て校舎は焼けて跡形もなく、グランドには被爆死したらしい近所の人らしい遺体が、二、三十、布団に簀巻きとなって転がっていた。大ヤケドをしたわが子を連れ帰ったり、死体収容所でやっと見つけた身内の死体を連れ帰ったものの、全市が壊滅、炎上して寺も、坊さんも、火葬場もない状態で、とりあえず二中のグランドに運んできたらしい。
 校舎があったはずの焼け跡は、本館や校舎跡が ”コの字”型に広がるだけで、正門から入って左手に建っていた講堂は、コンクリートの外壁がかろうじて残るだけで、赤がかったチョコレート色の屋根はすべて崩れ落ちていた。小使い室や汗臭い柔道着でへきへきした武道場は焼けていたような、全壊状態だったような、思いだそうとしても、定かでない。 県下でも数少なかった自慢の50bプールだけは、無事だった。
 当時は、空襲などの非常時の際は、至急、学校に連絡するように言われていたが、焼け跡には教職員も、生徒らしい姿も見えないので、好奇心に引きずられて、被害のひどそうな中心部を目指し、爆心地に近い相生橋を渡り、紙屋町から鷹野橋と電車道を歩いて帰った。当時は、原爆、放射能などといった言葉も、知識もなかったからなんの不安もなかった。
 同期の仲間が、東練兵場で被爆、大ヤケドをしながら、山沿いや海沿いの橋を迂回しながら、やっと我が家に辿り着き、1週間、10日と寝たままで過ごしていたのに、作業をサボっていた小生が、被爆直後の原爆の熱線と破壊力、がもたらした”地獄絵”のような惨状を目の当たりにするという皮肉な役回りとなった。
 このほか、被爆まもない母校の記憶といえば、被爆後、数日?経ってから、学校を訪れた際、教員室か、小使い室だったか、焼け跡の整理に来ておられた中谷テボ先生が、白骨化した頭骸骨を両手で捧げ持って「こりゃあ、唐崎先生じゃ」と言われたのと、海田、廿日市、可部の3分教場から観音町の母校に復帰した後も、8日に布団巻きの遺体が転がっていたあたりに、浅く掘って火葬した跡が赤く残っており、拾い残した骨灰が散見されていたことなどである。
追記
裏門から入って、講堂のそばあたりを見て、正門からでたような記憶がありますが、奉安殿は残っていたはずです。
またプールの西側に木造の脱衣所があったと思いますが、それは小高いプールの影になって倒壊した状態で残っていたような、気もします。
 
赤丸数字印のついている部分の写真と下記の写真を対応してみてください。
 
@御真影奉安殿
A 屋根が落ち、窓が飛んでいる講堂
 
B水泳準備室、右にプールの正門が見える(左下が切れているのは原画が編集されているため)

ポプラの木は倒れたものは見当たらず、葉も緑であったと記憶する。

 

羽村市青梅市中学生のピースメッセンジャー2016年
今年の東京の中学生のワークショップは青梅市の主催で開かれた。
聞くところによると羽村市と交代で世話役を務めるということであった。
昨年の反省もあって、グループメンバーは、23期生証言者、浅野、小畑、田淵、塚本、新出、山本(定)各7グループ単位を変えることなく十分時間をとるように配慮された。
また、ファシリテーターが女性であったこともあってか細かいところにもさまざまな工夫がされて初年度の昨年より充実していたように思う。
広島からは、女学院の3年生の生徒さんが10人参加していた。
ワークショップの後、二中慰霊碑に各グループごと7グループでそれぞれ、
献花してくれた。
                                   (塚本記)
                    

   
                     研修の全景
 
   
献花の模様
     
慰霊祭での献花の模様

 





羽村市、青梅市、広島市の中学生の平和学習に23期生の有志が
 被ばく証言者として参加
8月5日午後、広島市青少年センター催された、ワークショップに、浅野、小畑、国重、田淵、新出、山本(定)、塚本の7人が、「ピースワークショップin広島」に参加して、証言者単位で組まれたグループで20分の証言後討論に入った。ワールドカフェ方式というグループディスカッションを行った東京の中学生たちは、事前研修で「レクイエム碑」をCDで聞いてもらったはずなのだが、曲が
日常彼らが聞いている軽いメロディのものと違って重いものなのが原因だったのか、もっぱら田淵君の提供した歌詞と、指揮を取った山本君の解説文に頼って理解した様だとの主催者の羽村市の高岡主査の感想であった。ワークショップ後、広島の中学生は退出し、部屋を変えて東京の中学生だけに、23期生が補足証言をした後、最後に、二中慰霊碑に参拝、献花してくれた。
 
ワークショップがすんで全員写真
 
研修の模様
   
                    献花の模様  ( お坊さんが長いお経を挙げておられた。三光寺の住職さんとは違うようだが、有難いことである。)同窓会事務局の話では長年お世話になった三光寺さまが、ご病気で7月にお亡くなりになられたこともあり慰霊碑の月参りを同窓会副会長(観音院の副住職)でもあられ観音19回の大西博臣さまにお願いすることになりました。とのことである。その方なのであろうか。
     
小畑兄東京の中学生のワークショップ証言の模様
 
       
   荒谷勲君を偲んで

2014年3月、難病にかかられたことを本人から、メールで、洋酒の会のメンバーに知らされたのはついこの間のことのように思える。それは、洋酒の会での彼の振るまいが、何も無かったように平然としていたからである。発声に困難が見られたが、気心の知れたメンバーには殆ど支障はなかった。従って、国重君が2014年12月24日に彼のマンションを訪ねたとき、近所のひとから、今朝亡くなられたと聞き、愕然とした気持ちは我々の想像以上のものがあったであろう。時間がたつに従い、あまりに早く逝った彼の生前の足跡を思い出すに付け、この欄に若干でも紹介したい思う。
彼がこのホームページに姿を現すようになったのは、故中村忠之君が、全面改定をしたときからであった。英文のページを作り、インターネットの特性を活かして、世界にこのホームページを広めたいという壮大な計画の核として、広島としては避けて通れない、原爆の体験記をとりあげた。原爆とボクたちである。日本語と英訳の労作である。
     
また、現役時代のキャリアを活かしてHIP(Hiroshima Interpreters for Peace)の一員として活躍、多くの外国人ジャーナリストの取材、或は、NHK World Newsへの出演を受けている。(you tubeの引用参照)
 
NHK World News
 

コーベットレポート1

コーベットレポート2

掲示板の書き込みにも積極的に、色々と提案して頂き、関本先生のお墓参り、洋酒の会などを実現して頂いた。
 
新洋酒の会と称して、故中村兄の後を引き継いで、吉島福祉センター、荒谷兄のマンションの集会室と転々としながら、面倒を見て貰った。体調を崩して居られたが一生懸命の様子にわれわれも顔を見せて上げることが元気のもとになると信じて、会に出席した。この日の約1ヶ月後亡くなられた。
 
関本先生の登校でなく東練兵場に行くようにとの8月5日の指示で我々は命拾いした。
   

 
  平成25年23期同期会開会挨拶
ご冥福をお祈りします

 


         幻となった平成26年度23期同期会のDVD
このトピックスと掲示板の欄で、三島達司兄の豪華世界旅行の写真を多数を掲載しました。その後の写真の追加アップを期待していたのですが、ドクターストップが掛かり、海外旅行禁止となり、もっぱら東京近傍の写真を撮って見せていただいていました。今年は2月の同期会に出席して、会の模様を自慢のCANON EOSーMで動画に撮ってDVD-VIDEOに仕立てて、会員に配布したいという計画を立てておられたのですが、ご存じのように、当日は嵐になつたので、千葉県からは、ちょっと無理だろうと急遽欠席されました。しかし、シナリオもチャント作って居られて、DVDのラベルも下の写真のようなものをデザインし、塚本のところに送って来られる熱の入れようでした。平成27年度にはDVDを作っていただけることを期待していたのですがそれも夢となりました。人生無情、急逝されて訃報欄にお名前を載せることになりました。
     
訃報欄に浅野兄が詳しくご生前の事を書いて居られますので、ご一読下さい。浅野兄のところには写真の様にご夫婦でセレブ世界旅行をされた記録を、DVDにまとめてを多数送って来て居られます。
   
現役中はコンピューター会社に勤めておられた事と、生来の色彩に関する優れた感性に加えて、卓越したカメラ技術で、逝去直前まで、BLU-RAY DISCにより、今まで作られたDVDをBLU-RAY化することにより生の撮影画像の真の姿を再生する事に専念されておりました。好きなことに専心しながら一生を終わられることはある意味幸せなことではないでしょうか。(合掌 塚本)

 

                        小畑兄と新出兄、
   東京都羽村市平成26年度広島平和啓発施設見学会で被爆証言

 小畑兄は、草津の教専寺住職さんの兄上が広島二中の一年生として被爆死されたときのいきさつ、ご自身の被爆体験を証言された事、新出兄は、8月6日の豪雨のため、二中慰霊祭に間に合わず、遅れて慰霊碑に参拝している時、偶然、羽村市の中学生代表が、参拝に訪れ一緒になったので、被爆体験を説明したという事です。
詳細は、「見学会報告」をクリックすると詳細を読むことが出来ます。

   
     新出兄と中学生代表                 草津 教専寺で証言する小畑兄

 

   山本定男兄の平和活動、「合唱曲に託した慰霊活動」として
               朝日新聞12月4日版に紹介

広島市民で結成した合唱団が来年(2014年)3月、ニューヨークの国連本部でコンサートを開く。山本兄はその実行委員会事務局長として活躍中である。また「広島二中一年生全滅の記録」を混声合唱曲にまとめ世に問い名をなした人でもある。
     
朝日新聞の記事の詳細は、写真をクリックするとpdfとして読むことが出来ます。
 


        浅野温生君の被爆証言を中国新聞が取材
平成25年8月19日の中国新聞朝刊にかねてから続けている、日本生協連への証言活動が取り上げられた。現役記者時代に自ら取材した立場からの証言が注目されている。





            
写真をクリックすると新聞記事が読めます






 
 

                      23期生の歴史写真3
しばらくお休みでしたが、浅野兄、三島兄から資料提供があり、塚本独断で申し訳ありませんが、取捨選択して以下のようなものを取り上げました。テーマは「校章と制帽の変遷」と「二中芸陽時代の校舎などの風景」です。
                              制帽と校章
 
戦闘帽と二中校章
昭和21年〜22年頃
 
慶応帽と二中校章
昭和22年〜23年頃
 
慶応帽と芸陽校章
昭和23年4月以降
                      昭和23年から24年頃の校内風景
 
門扉には二中の校章のくり抜き
門柱の文字は広島県広島芸陽高等学校
と読める
 
破壊されたままの講堂正面
 
東から眺めたプール先の方に校舎の屋根が見える
昭和24年頃

最初で最後?の芸陽祭り、文科2年A組二位入賞とのこと。浅野兄の所属した関本組昭和23年7月24日

もっと沢山の写真を募っています。ご協力お願いします。

 

                  三島達司君世界旅行写真
海外旅行をしている同期生は沢山居られると思いますが、傘寿を過ぎて、かくしゃくとして、高級カメラを駆使して、立派な芸術写真を撮っておられる人は稀です。この度浅野兄を通じて、貴重な写真をこのホームページに提供して頂けるようになりました。あえてこの欄でなく「掲示板」に掲載させて貰うことにしたのは、これからも末永く掲載を続けて頂ける様にと言うことと、写真を見た人の感想をすぐ、書きこんで、交流を図ってもらいたいからです(管理人)。
 
三島兄近影(トルコにて2013.5.27撮影)
                     「元気の秘密は、写真撮影と海外ツアー」
                                                 三島 達司
カメラとの最初の出逢いは、小学校入学前の五歳のころ。両親と広島の新天地を散歩していた折り、写真機屋に陳列してあった蛇腹式のカメラを見た時だった。「あれ買うてえ」と頼むと「ダメ」と一喝された。値札を見ると、「65円也」。当時、サラリーマンの月給が、50円くらいだったはずだ。

カメラを初めて手にしたのは、小学校2年の時、静岡の叔父とに宮島に遊びに行き、土産物屋で買ってもらった。むろんオモチャだが、フイルムに現像液つき、当時の写真機だから後ろの磨りガラスに像が逆に見えるタイプ。説明文を読んで、撮影・現像・・・と手順通りやってみたが、全然、映像が現れずガッカリした。念願の写真機を手にしたのは、終戦後、駅前の闇市だった。蛇腹式だったが、カメラはあってもフイルムがなかなか手にはいらない、時代だった。

子供の頃からの”カメラ好き”を引きずりながらも、趣味の領域でのサラリーマン生活を終え、定年を迎えて趣味が高じて”カメラ狂”になった。

家内が、たまたま市主催の「野鳥観察の会」の講師をやっていたのが縁で、観察会に同行、野鳥撮影のトリコになった。こうして野鳥観察の仲間とニュージーランドへ出かけた撮影ツアーをきっかけに、旅行社の写真クラブに夫婦で参加、古代の文化遺産や遺跡、アフリカの大自然まで、今年5月のトルコ旅行まで、カメラを肩に夫唱婦随、通算32回(歴訪した国、地域は2,3倍?)の”地球歩き”をすることとなった。

いずれも”金と暇のある”カメラ・マニアだから、携帯荷物の半分は、撮影機材。首に2,3台のカメラ、肩には交換レンズのたぐい・・・と、体力もいる。因みに先だってのトルコツアーへは、キャノン(EOS,KIss×7)と、ミラーレス・カメラ(EOS−M)を携行した。デジカメで旅行を堪能しておられるご甚には、無縁の話かも。

とまあ、”ひとりよがり”のカメラ・マニアの近況報告と、これまでの”地球歩き”のスナップ写真を送ってみました。

         カッパドキア(トルコ 2013.5.27撮影)

伊北部ミズリーナ湖(イタリー 2007.7.27撮影)
その他多数、掲示板に掲載してありますので是非ご覧下さい
 

NHK中国新聞が取材!浅野温生君「国民歌謡をもう一度歌う会」
           十周年記念コンサート


 広島県合唱連盟の会長だかをやっている同期の山本定男兄には比ぶべくもありませんが、
老生も「国民歌謡をもう一度歌う会」というジイバアの歌声サークルのメンバーとして、月1のコーラスを楽しんでいます。
 この歌声サークルが、発足10年を迎え、5月30日、広島メルパルク8Fのブルー・トパーズで、「10周年記念コンサート」を開きました。会員の平均年齢は77歳。戦中・原爆・戦後の苦難の青春時代の体と験思い出を共有する仲間33人と、一般聴衆約70人が集い、「椰子の実」「朝だ、元気で」「隣組」「お山の杉の子」「愛国の花」「こころのふるさと」「山小屋の灯」「あざみの歌」など26曲を披露、聴衆も唱和・ハミングで”参加”するなど、和やかで楽しい記念コンサートとなりました。
 この集いは、31日付け中国新聞夕刊に掲載されたほか、10年前、会発足のきっかけとなったNHKローカル番組「情報ボックス」(当時)の縁もあって、6月5日の「お好みワイド・”お好み探検隊”」特集(10分)でも放送され、裏方役の老生まで、何度かアップで写りました。
 以下は、関連の記事写真やテレビ映像の数カットです。お笑い草の種にでも・・・・。 (浅野温生記)

                              全員揃って記念写真






中国新聞からの記事より
説明文はここをクリックすると
読めます。






   
                                   テレビ画面より

 


        故中村忠之君を偲ぶ会開催

                     祭 壇

               国重君の追憶の辞

            畏友・中村忠之君を偲ぶ会
 我われ二中同期で縄文塾の塾頭として、”縄文通信”の編集・配信など、ユニークな言論活動を続けてきた中村忠之君を偲ぶ会が、4月20日午後6時半から広島市南区的場町のセンチュリー21ホテルで開かれた。
 偲ぶ会は、3月8日に物故した故人が、生前に「月並みな葬儀は無用。四十九日が過ぎたあたりで、有縁の友人・知己による”彼岸への壮行会”をしてくれ」との遺志を生かして、縄文塾の主催の形で開かれた。同ホテル2Fの会場には、喪主の秀子夫人らの親族、生前、中村君が経営に参画していた内外企業グループの関係者、縄文通信の論客ら縄文塾の構成メンバー、秀子さんの茶道仲間、二中同期で、「洋酒を楽しむ会」の仲間だった国重、荒谷、塚本、栗栖、浅野の5人、ほかに久保田君も顔を見せ、80人余りの参列者で各テーブルが埋まった。
 偲ぶ会は、故人の”縄文理念”を実践する形で、神仏習合で執行され、花で飾られた祭壇には、故人の遺影、自選の「縄文院緑縁忠恕居士」の戒名が飾られ、参列者全員による般若心経の読経、神主による神道の祭文奏上などがあり、遺族代表らによる焼香、拝礼に続いて、故人の甥御夫婦の若いコンビによるピアノとテノール「千の風になって」「上を向いて歩こう」が披露された。
 続いて故人を偲ぶ会食・懇談の宴に移り、縄文塾や故人在職当時の旧会社関係者らの追憶・追悼の辞が続き、洋酒の会の仲間を代表して、国重君が、戦中・戦後の二中時代、被爆体験を共有した仲間としての思い出を語り、「彼岸の三途の川の向こう岸で、仲間が再会、洋酒を飲み歓談する場所を確保しといてくれ」と、ユーモラスに語りかけた。
最後に喪主代表としてナイガイグループ羽井社長のお礼のご挨拶で会の幕を閉じた。(浅野記)

 

               23期生の歴史写真2
 歴史写真2は日時のわかっているものということで、手持ちの「芸陽高校2年E組大杉学級時の解散式前のお別れパーティ」の写真を掲載します。ほかにお持ちの写真があったら是非、提供してください。
当日の模様は塚本の日記から転載します。写っている生徒の顔で判別出来る人は教えてください。

塚本の日記(英語)より
1949年、3月17日木曜日、曇り、後雨
 クラス自治会で決めたとおり、我々はすきやきパーティをするために八木の梅林(可部線梅林駅近く、太田川河畔)に行った。
 僕が起きたとき、まわりがあまりに暗かったのでほとんど雨が降り始めているように思えた。時計が8時の時報を知らせたときに、岩原君が訪ねてきた。僕は果物と野菜を持って行った。
 梅林に着くとすぐに、ご飯を炊くために(飯合炊飯)、河原の石を重ねてオーブンを作り、薪を集めに掛かった。ご飯が炊けて、我々のグループは、すきやきを始めた。終始とても楽しい時間だった。しかし雨が我々を邪魔したので、午後3時には、切り上げた。(注、恥ずかしながら塚本はこのとき初めてすきやきは生卵を浸けて食べるものだと知って、余った卵を貰って帰る途中、ポケットの中で割ってしまって気持ち悪い思いをしたことを思い出す。)
芸陽解散式の2日前の事である。写真は太田川河畔に並んだ同級生とすきやきパーティの様子および大杉先生(大杉先生のクラスだった)と記憶する。

                                         大杉先生

             太田川河畔にて(クリックで拡大)

           すきやきパーティ(クリックで拡大)

                     23期生の歴史写真1
23期生の歴史写真第一弾として、ケロイドの写真を選びました。
昭和20年8月6日東練兵場で被爆して、体の左側面に火傷を負った話は「ポプラは語り継ぐ」などで、よく出て来るのですが、実際には例え、目視であっても、遠慮して、見ることは、ありませんでした。以下は、写真の中の一人、国重兄の思い出です。彼の記述通りに記録します。
「当日はABCCからアメリカの兵隊がジープでやってきて、ケロイドのある人が集められてあの一枚になりました。二十年の秋校舎が出来た頃だったと思います。(はっきりしません)少し寒かったと思います。
 ABCCにつれて行かれた人たちは血液の検査をされ痛い目にあった様でしたが、私はあの写真で終わったので助かったのを覚えています。戦争に負けた事と、原爆にやられた事等が重なった毎日が暗い気分だったのを覚えています。・・・・」

写真のクレジットには昭和22年6月(撮影?)とあります。浅野兄の見立てでは、国重兄のほかに、故岩原兄、中本兄の姿が判別できるそうです。記憶のある人は、読み取ってください。(クリックすると拡大します)
        


       
               同期生刀禰明兄、観音高校の国際交流に貢献

かねてから、刀禰兄が広島西ロータリークラブを通じて、交渉中だった、台湾 新竹市 市立建功高級中学との姉妹校提携が合意に達し、昨年末、観音高校中川校長が訪台されて、先方の李玉美校長との間に、協定書が交わされた。今後、双方の学校のの交流がはじまり、グローバル化時代にふさわしい生徒の国際感覚の育成に貢献するであろう。刀禰兄のご努力に敬意を表するものである。25年度同期会で、ご本人から披露された。写真は中川校長と、協定書(クリックすると拡大します)。
 
中川校長先生
 
協定書

 
               「ポプラは語り継ぐ」を国立国会図書館に納本
                           
ポプラは語り継ぐの冊子を国立国会図書館に納本しましたら、写真のような受領書が来ました。これで、国が永久に我々の記録を保管して、全国、全世界に公開してくれます。インターネットからの検索は下記URLからできます。
                     http://ndlopac.ndl.go.jp/



 

         洋酒の会新年会

今年で5年目に入った洋酒の会も新年らしい企画ということで、いつもの会場を出て、1月22日、アクセスのよい広島国際ホテル、東風で、飛び入りメンバーを交えて、賑やかに楽しい宴をもちました。
中華料理ですが、洋酒の会ということで、特別に店で赤ワインを準備してもらって、大竹から、駆けつけてくれた、田淵広和君の乾杯で、はじめました。
談論風発、和やかなうちに、旧交を暖めました。「時々はこうゆう集まりもよいな」と言うことで、またの機会を約して解散しましました。会の模様は以下の写真をご覧下さい。


後列左より
    久保田、  荒谷、   田淵、   国重、    新出
前列左より
   橋本、  大田、    栗栖、   恂{      浅野








 
                二中一年生になったときのことを覚えていますか

写真は昭和10年代の校舎正面と運動場












これは、大竹から通学し、現在も大竹在住の1年5学級、新出稔雄兄のご尊父の日記の抜粋です。
新出兄のご厚意により、掲載させて頂きます。写真は、70周年記念誌からの引用です。我々の二中生活のはじめを思い出してください。
平成24年8月18日、関本先生のお墓参りの後、有志が集まって、懇談したとき、披露して頂いたものです。みな一瞬あのときにタイムスリップした気持ちになりました。初心忘れるべからず。
                         新出兄のご尊父の日記より
 4月4日 晴 火曜
 今日は稔雄の晴れの入学式で、午前六時三十二分の列車にて出廣、登校するが、澤山の入学生が嬉しそうな父兄に連れられ
 続々出校する。
 午前九時過ぎより校庭に集合、学級別に集合をなし、各学級主任の先生に依り夫々の教室に導かれる。
 午前十時より講堂に於いて厳かに入学式が挙行せられ、校長先生の訓辞、各学級受持主任先生の紹介挨拶後、
 通学に関してや被服、文具、教科書等に対しての注意事項ありて入学式を終わり、
 再び教室(第一学年第五学級)に帰り、受持先生の諸注意ありて後、誓約書、抄本、卒業証明書を提出。
 次は事務室に至り通学用の定期券購入券の手続きをなし、あらゆる本日の行事を午後一時半に終り下校する。
 街に出て稔雄にニュース映画を見せてやり、八丁堀より電車にて己斐に出て、十六時三十分の列車にて帰宅した。

昭和10年代の講堂正面と内部


  under construction         二中終焉の卒業式

広島芸陽高等学校解散式
昭和24年3月1日、芸陽高校卒業式が行われた。5月に新制高校へ昇格してより、10カ月余で、あるが、その間様々な改革があり、卒業する3年生は、芸陽高校第1回卒業生となった。
 4月から、学生改革があり、学区地域制、男女共学、学校再編成の決定をみて、3月19日、芸陽高校解散記念式がバラック建の仮講堂で挙行され、二中、芸陽と続いてきた27年の歴史をひとまず閉じることになった。
 「今回、県下中等学校再編成という画期的学校大変革に際し我が広島県広島芸陽高等学校が、大正11年、県立広島第二中学校として発足して以来、27年の輝く伝統の大学園を、発展的に解散しなければならぬ必至の立場にたつことは今さらながら感慨恂に痛切である。今回の県下中等学校の再編成は、文化国家としての新日本建設の基盤たることを、その至上命令とする新学制が、その意義を実現する上に必然的要請となって来た新制中学の整備拡充と、理想的形態を持つ新制高等学校の新構成とを期する、県下中等学校の文字通り抜本的な一大飛躍的展開である・・・・」と三沢校長は挨拶している。
二中卒業式の式次第はない


      白抜きのところが仮講堂らしい

                     県立広島二中の最後の卒業式の状況
二中卒業式に関する資料をいろいろ調べたが、見つかっていない。当面、塚本の当日の日記で、卒業式を想像してもらうしかない。どなたか詳細な資料を提供して頂きたい。それまでは、under construction(工事中)の表示をしておく。以下塚本の日記(原文は英語。掲示板を参照)

「1949年3月19日(.土)  時々雪後晴れ
今日は、われわれが芸陽高校の生徒として、登校する最後の日である。僕は8時35分頃家を出て学校に向かった。
 学校では、閉校式と卒業式が始まる直前、水田先生(国語)から、塚本が、総代として卒業証書を授与される事に決まったと告げられた。僕は、校長先生の前に最初の生徒として立ち、総代として卒業証書を授与された。
また、二つの表彰を受けた。即ち一つは二中5年間の優等生としての賞状を副賞の万年筆と共に、もう一つは、芸陽高校2年生としての1年間の優秀賞を授与された。
 僕は、今日は、再び、装置(何か不明)にラベルを貼る作業をしなければならいと思っていたので、弁当を持ってきていたが、午後1時前に帰宅して自宅で昼食を食べた。それは、大杉先生が後で、ご自宅で、自分自身でやるからと言われたからである。
 卒業式が終わった後、我々のクラスは大杉先生(芸陽高校2年E組担任)に、感謝の意味を込めて、置き時計を贈った。」

卒業証書や賞状は、記述のものが存在するので、卒業式があったことは事実であろうと思う。
 ただ、以下に、久保田兄の卒業証書を引用させても貰うが、学校長印は、二中のものだが、大きく押印されている学校印は「広島県立広島芸陽高等学校印」となっている。このあたりに、二中卒業式が記録として残らなかった理由の一片を暗示しているのではないかと推察される。

                   卒業証書


             広島県立広島芸陽高等学校印
                           県立広島二中の最後
かくて、1922年に創立された27年の伝統ある県立広島二中は戦後行われた学制改革により、創立より、わずか1年の、新制芸陽高等学校の解散式の陰で、1949年3月19日、ひっそりと姿を消したのであった。
 

二中11回生金本康三さんのご子息一行来広

本トピックスで紹介した、金本康三さんのご子息、金本光司さんとご長男の健さんが9月の、来日の機会に、かねて康三さんが、二中時代に寄宿されて居た、五日市の金本家を訪問される時期にあわせて、同窓会事務局の金籐さん、中国新聞の田中記者、と塚本、に会いたいとの申し出でがあり、6日にお会いした。それに、平和公園の見学を希望しておられたので、平和公園の見学には必須の荒谷兄に塚本のほうから無理をお願いして会合に参加して貰った。

 詳細は、金本光司さんの英語のブログに、大変上手にまとめられているので、是非ご一読願いたい。

http://p47koji.wordpress.com/2012/09/18/the-1937-yearbook-the-atomic-bomb-and-hiroshima/

この会合には、伏兵が居た。最終的には先方4人、こちら側が4人計8人の大勢になったこと、会合の場所をどこにするか、平和公園というのが如何に広大な場所であるか、思い知らされた。常識的には、近くのホテルということになるが、全日空か、サンルート、いずれも近いといっても、歩くとなると、暑い中大変で、お年を召した方もおられるので、荒谷兄から、一生懸命、情報をもらって、結局、国際会議場のなかに決めた。二中慰霊碑がすぐ近くにあるのが、救いであった。ただ、予約をするのに、先方に出発直前ご不幸があって、連絡が十分とれなかったこともあって、こちらが一方的に決めざるを得ず不安が最後まで残った。6日は木曜日なので、仕事をもっておられる、金籐さんと田中さんには相当無理を強いたことになったのではと、心配であった。いずれにしても、会の進行には、荒谷兄の的確な判断が必須で、資料館の見学が大幅にスケジュールが遅れるのを調整したり、平生、経験していないと判らないところを、本当に良く助けて貰った。英語での案内が役だったのは勿論だが、見学者の様子にあわせて、臨機応変に対処できるのは彼が以外では出来なかったと思う。塚本ひとりでは、完全に立ち往生であった。資料館では、お二人とも熱心に見学をされた。特に若い健君は余り日本語ができないということで、荒谷兄がつきっきりで英語で説明をし、熱心にメモをとって居る姿が印象的であった。光司さんはかなり、事前の情報をもって居られる様子だった。最後に、「片よりのない良い展示だ」と感想を述べられたのが耳に残った。

平和公園の見学になったが、相当時間的に遅れが出たので、先方の女性のかたがたの、ご希望もあり、国際会議場の1階のラウンジで休憩してもらい、男性群だけで、早足で、公園内を見学して貰うことにした。公園の案内をすませて、予約していた地下のセレナードに行くと、金籐さんと田中さんが、先方の女性方達を接待して居られて、ここでも助けてもらった。平和公園の見学はあらかじめ予定していたコースを急遽変更して、先に会議場のすぐ傍の二中慰霊碑に参拝して貰った。あらかじめ準備してこられたペットボトルの水で献水をされた。お父さんの康三さんからも良く拝んで来て欲しいといわれたとのことであった。あとは、原爆死没者慰霊碑、原爆の子の像、原爆ドーム、爆心地、相生橋を廻って、セレナードで皆さんと合流した。ギフトの交換の後、、外に出て、モニュメントの前で記念写真を撮った。最後に、光司さんが資料館で求められた、広島と原爆の本にサインをして欲しいといわれ、塚本と荒谷兄で、日本語でサインした。2冊は子供さんに、もう1冊は白人の友人にと言うことであったが、英語でなく日本語にした。「広島から平和の祈りを」と書いた。


左から田中美千子記者金本光司さん金籐朋子さん久保川泉さん金本政子さん塚本、荒谷兄金本健さん


サイン 塚本          荒谷

 

                  関本先生のお墓参り第一団

8月18日(土)、二中23回生有志で、関本先生のお墓参りをした。総勢8名。僧籍に在る、6学級の山下晃兄に懇ろに、お経をあげて貰い、皆で合掌、今日まで命を長らえた事へのお礼を申し上げた。

今回は、第一団として、8月という特別の月のご命日18日にお参りした。参加メンバーは、

お経をあげてくれた、山下晃(6学級)を始めとして、栗栖貞夫(6学級)、荒谷勲(5学級)、新出稔雄(5学級)、山本定男(5学級)、浅野温生(4学級)、国重昌弘(3学級)、塚本昭(3学級)の8名であった。引き続き、各クラスで連絡を取り合って、個別にお参りをするようになると思うので、道順など、このホームページの「お知らせ」を見て頂くか、PDFをダウンロードしてください。道順図

事の始まりは、数年前、このホームページの掲示板に荒谷君が1945年8月5日の終業後、突然関本先生から、6日の登校日を変更して東練兵場に行くようにとの指示が出たことを、先生達の相談の過程も含めて、記憶しており、知らせてくれたのが、発端で、今年になって、彼からお墓参りの提案があり、古い話なので、浅野君がご遺族のことを調べてくれて、当時担任クラスにいた、塚本から、ご遺族のご了解を得て、実現した次第である。詳しくは、掲示板してあるので、お読み願いたい。

以上のようないきさつもあり、当日は荒谷君が、7人乗りの自車を駆って、全員の運搬送迎に尽力して貰った。ここに改めて感謝します。

当日の模様を写真で紹介します。当日の正午頃だったので、かんかん照りで、皆高齢でもあり、熱射病を心配したが、無事お参りを済ますことができた。
関本先生のご子息から丁重なお礼状が届いています。このページの末尾に掲載していますので、お読みください
注 写真の怪と言っていたのは、新出兄の高解像度写真で支柱付きの墓灯籠と判明しました。

左から 山本定男(5学級)国重昌弘(3学級)山下晃(6学級)浅野温生(4学級)新出稔雄(5学級)

                関本先生のお墓

卒塔婆は塚本
が、供花は荒谷兄が準備、その他、線香、蝋燭等は
この写真では、まだ準備できていません。

卒塔婆:8月18日
     供 広島二中23期生有志
                撮影 塚本 


           山下晃師(6学級)読経開始

                    合掌1       撮影  塚本

                     合掌2       撮影 新出君

左から 山本、塚本、栗栖貞夫(6学級)、浅野、国重、山下師、荒谷勲(5学級)  撮影 新出君  
   


                      山本定男君               撮影 新出君
    

                  国重君          撮影 新出君

                 お経も終わり近く。              撮影  新出君
この後、後始末をして、関本先生に別れを告げて、墓園を後にした。
荒谷兄には、皆を車で下まで運んで頂き、誠にお世話になり、ありがとうございました。
諸兄の引き続きのお参りをお願いします。
     関本先生本当に有り難うございました。安らかにお眠り下さい。
         ご子息関本 晧様から丁重なお礼状(クリックで開きます)が来ております。 
         
                     8月6日中国新聞朝刊と献水
金本康三さんと卒業記念アルバムとウイスキーフラスコに関して中国新聞が8月6日朝刊で報じてくれた。pdf参照。当日の献水の模様を写真でご覧ください。

 
 


               

二中11回生金本康三さんと卒業記念アルバム

5月のある日突然、ホームページ用のメールアドレスに、中村兄と塚本宛に見知らぬ人から、メールが入って来た。

内容を読むと、自分(金本光司)は、日系3世で、父は金本康三と言い、シアトル生まれで、93才。現在、ロスに住んでいるが、1927〜1937まで、八幡(現佐伯区利松)に居て、広島が一番よい思い出になっている。古い写真を整理しているが、webにアップしている写真の二中というのは、あなたの学校か、という質問でした。少し調べるようになるとおもったので、中村兄には、塚本が担当するからと言って、任せて貰った。Flickrという写真共有サイトにアップロードされている一連の写真の中に、運動会だと思われるが二中の校旗がはためいているものがあった(写真参照)。


一方、手持ちの「芸陽」1975年版の住所録をしらべると、確かに、11回生金本康三という名前があるが、物故者の欄に分類されて居る。物故者扱いになっているとは言えないので、とりあえず、写真は二中のものであり、お父さんは二中に在籍されされた事は間違いないこと、同窓会事務局に聞いて、更に情報があるか調べるので、時間を貰いたいと返事を出した。

芸陽観音同窓会事務局の金籐朋子さんにメールを転送して調べてもらったところ、昭和46年までは転居先不明となっているが昭和47年には物故者と分類されて居る、わからなかった事とはいえ、申し訳ないことなので、直ちに更新する。更に、幸運にも、11回生の卒業記念アルバムが残っており、しかも金籐さん自身で、電子化(pdf化)してあるので、アメリカへCDとして郵送することは可能であるとの返事が来た。心配りの聞く人で、アルバムの中から、康三さんの写真を抜粋して送ってきて貰った。


 速メールに添付して、送ってあげると同時に、CD化したアルバムを送る宛先を知らせて欲しいと書いたら、こちらが驚く程喜んでくれて、喜びが日本語では書けないので、英語で書きますと言って、心がrampantと言う表現でよほど嬉しかったのだと想像出来た。

これは全く金籐さんのおかげで、彼女の的確な判断と技術、なによりも先輩に対する心配りが無かったら通り一遍の手続きで済んだであろう。私は単に、間を取り持っただけなのだが、これから何回もメールが続く事になった。屡々、こちらは、日本語、先方は英語という珍妙なやりとりが続いた。

これも金籐さんの配慮なのだが、別の捜し物をしているとき、偶然「芸陽」という校内誌の戦前の冊子が見つかり、中に康三さんのランニング姿と一緒に関本先生が写って居られる写真が見つかったので、送ってあげて欲しいとメールで送ってもらったので、このトピックスの欄でも紹介している先生のエピソードをメールに書いた。

(一番下の写真で弓を引いている生徒の隣が関本先生)

関本先生のお墓は、江波山の海寶寺墓園にあり、ホームページに案内しているように、お盆明けの8月18日に有志でお墓参りを計画している。

関本先生のことはよく理解してもらったようで、下の2番目のブログで紹介して貰っている。

CDの宛先は現在「康三さん」の姪になる政子さんが住んで居られる佐伯区利松の住所を指定してこられた。多分郵送料のことを考えてのことであろう、なかなか配慮のあるひとだと感じた。あとで、自分は日系企業の部長職をしていると身分をあかして頂いた。こちらは、国際的なメールを出すことに慣れていないので、時差を考えずに送るため、屡々仕事中に届いたりすることが多かったようで、申し訳ないことをしたと思う。

金本光司さんは大変インターネットを使いこなすスキルに長けて居られるので、Flickrという写真共有サイトやブログをwordpressのサイトに書いておられたり、動画は、Youtubeを使うなど、私も、一寸付いていくのに、苦労するほどだった。

メールのやりとりのなかで、二中のことも少し書いてあるからと言ってブログのアドレスを紹介された。

 http://p47koji.wordpress.com/2012/05/15/masako-and-spam/

これは、金本政子さんが終戦直後の食料不足の時、康三さんから貰ったスパム(コーンビーフのようなもの)をおむすびに付けて食べるのが好きで60年経っても、その好物は変わらないという話から始まって、金本一族の家族小史になっている。この中に二中の話も少し触れてあるので、読んで欲しいということであった。二中の慰霊碑の写真があり、政子さんの被爆当時のことなど、原爆のことについてはかなり詳しい様である。

6月11日、アメリカに届いたCDから複製したアルバムをプレゼントに、1週間早い父の日のお祝いを康三さんの住んでいるロスアンゼルスのsenior houseで催したと言って、多くの写真、動画を送ってきて頂いた。お父さんが喜んで居られる様子、大家族でそろって食事されるところなど、今では日本でも見られないような暖かい雰囲気が伝わって来て、見る者を和ませてくれるシーンの連続であった。特に、全員が満面の笑みで康三さんを囲んで写って居る集合写真は圧巻である。


(父の日に集まった金本一族(車いすの女性は95才、康三さんの姉)

それにしても本当によい家族を康三さんは持たれて幸せな人だと感心した。この模様といままでのいきさつについて、ブログに書いたので読んで欲しいと紹介されたのが以下のアドレスである。この中に、ポプラ会のホームペ−ジのAbomb and Usにリンクを張ったからと追記されて居る。コメント欄にこのリンクにアクセスして、感銘を受けたとの寄稿がある。又、このブログへのアクセス数がアップされた直後500件を超した頻度ですごい反響だとのこと。

http://p47koji.wordpress.com/2012/06/13/an-atomic-spark-from-a-1937-yearbook/

更に、youtubeに康三さんがアルバムをみておられる模様をアップして紹介されている。記憶力が素晴らしいのが会話から読み取れる。又かくしゃくとして居られる。

http://youtu.be/zoKD22-qKQE


(康三さんと卒業記念アルバム

最後に、giftとして頂いたwhisky flaskを紹介する。これは、側面に、

Nichuu High School,August 6,1945

と彫刻されてある。一緒に添えられた手紙に、原爆で亡くなられた生徒さんを偲んで献杯をして欲しいと書いてあった。


金本光司さんの意を汲んで、今年の8月6日に、このフラスコに、水を欲しがって死んで逝った生徒達のために、お酒ではなく、水を入れて、慰霊碑にお供えするつもりである。

一本のメールから始まった、このお話は、二中の大先輩、金本康三さんに対する最高の贈り物が出来たという首尾となった。アメリカで、真の親孝行を見させてもらったというのも私の感慨である。また、アメリカで8月6日のことがどのように受け止められているのか知ったことも大きい。

金本康三さんの末永いご長寿をお祈りします。

お願い

動画のなかでも、康三さんは昔の同級生の名前を次々と思い出して、居られる。11回生の同期会である、昭士会はすでに、2007年に解散しているが、まだまだ元気な期生はたくさん居られるはずなので、この記事又、下の写真を見て身近に知った人が居られたら是非、同窓会事務局か、このホームページの連絡先まで、一報願いたい。金本さんに伝えます。


   11回生第22学級卒業記念(クリックすると拡大します)   

                    


関本先生のお墓参りの下見に行ってきました
6月11日に提案者の荒谷兄と塚本が荒谷兄の車で、江波山の浄土真宗海宝寺の墓園にある、関本先生のお墓のお参りの下見に行って来ました。江波山トンネルの手前の二本松交差点を左折して、最初の三叉路を右折すると後は一本道で普通車が楽々通れる道です。ただし離合は難しいです。頂上に着くと素晴らしい眺望に恵まれた場所でした。10台は楽に駐まれる駐車場があり、その前におびただしいお墓の並んでいる墓園があります。先生のお墓は入って直近くの水汲み場のそばでした。お灯明とお線香を上げて合掌し、後、海宝寺に外からお参りしてきました。

 

墓石の右端に「昭和三十年九月十八日 雪象 五十八才」とあります。隣の名前は奥様のものと思われます。

                荒谷兄  
             塚本

道順 左から右に見てください。

       カーブがきつい  

      1                2             3                4       

       

   5                6              7            海宝寺    


浅野師匠の名歌

もみじ銀行の”宝くじ川柳”に面白半分?に応募したら、わすれた頃、
「浅野さんの川柳も八丁堀支店に展示してあります」と電話がありました。
のぞいてみたら展示二十九点のうち、八点が私の句でした.。歌心、詩情もない
”ブン屋”あがりだけに、世間を斜に見る癖は治らぬようです。ご笑覧のほど。
(浅野記)


新洋酒の会
2012年第1回新洋酒の会を1月26日荒谷勲君の肝いりで、吉島福祉センターで開きました。
閑静な住宅街にある施設の会議室は広々として明るく快適でした。
塚本の作ったカクテル(マティーニ)で乾杯した後、皆、それぞれ好きなリキュールを飲みながら
談論風発、楽しいひとときを過ごしました。
つまみ当番の栗栖君がデラックスなつまみを持参して、皆堪能しました。
2008年4月から2011年12月まで中村忠之君宅で開いていましたが、今年から独立しました。
すべてががセルフサービスで、これまで中村君と特に奥様にいかにお世話になっていたか
、一同深く感じ入ったことです。改めて、中村夫妻にお礼申し上げます。

左から、塚本、荒谷君、栗栖君、国重君

左から塚本、浅野君、栗栖君、国重君

        国重兄原爆体験談小便の巻

    
 ◎荒谷勲君の被爆証言ビデオ収録状況がテレビに映ったのが契機となって、
 朝日新聞の第2広島版の「聞きたかったこと----被爆から63年」の欄に掲載されました。
  ⇒ここをクリック

 ◎同じく朝日新聞地方版「聞きたかったこと」の欄に、原爆関連記事を多く書いた、
 元(中国)新聞記者として、浅野温生君のインタビューの記事が、大きく掲載されました。
     <浅野兄の記事> 
   ⇒ ここをクリック

    
               中尾計三君の受賞祝賀会開催

 「朗報」の欄で紹介しました、同期生中尾計三君の、「瑞宝小綬章」受章祝賀会が、(平成20年)
6月28日(土)12:30よりメルパルク・ホールで開催されました。
 同期生では当時5学級のクラスメートだけに案内されたとかで、12名が出席しました。出席総数85名、和やかな中にも盛大に挙行されました。      (荒谷 勲君の報告


     中尾計三君の受賞風景(中尾夫妻と、祝辞を述べる(同期生)田淵廣和君

 

           『洋酒を飲んでダベる会』を開いています!   
                                            中村 忠之

 私の発行しているメルマガ「縄文塾通信」に、荒谷 勲君が「思い出の洋酒」という一文
を寄せてくれたことを契機に、塚本昭君がシェーカーを振るという特技の披露と併せて、
拙宅で、08年4月から表記の集いを開いくことになりまた。酒からカクテル道具類一式、
塚本君の持参。
 
 結局酒も道具もすべて一式拙宅に置いて帰るのというので自然発生的に、「では毎月
1回」ということになりました。

 08年の12月に、中村の身体的トラブルもあって、09年3月まで中止しましたが、4月から
再開しました。部屋の広さの関係で、残念ながらこれ以上の参加は無理のようです。
  (左から 浅野温生・栗栖貞夫・塚本昭・正藤英夫君 )

 (左より 国重昌弘・荒谷勲両君と中村 忠之 )



         「広島ベル・カント男声合唱団」がスタート
  2008年3月、同期生山本定男君(広島県合唱聯盟理事長)が設立発起人代表となって、
「広島ベル・カント男声合唱団」がスタートするはこびとなりました。
 ◎練習日: 毎週金曜日 午後6時45分から〜8時45分まで
 ◎場 所:広島市東区東蟹屋町、東区民文化センター・6F音楽室
 ◎月会費:、2,500円 (正式な発会は、4月から)
 ◎練習開始:4月4日(金)から 
 ☆4月中はオリエンテーションの期間とし、会費の徴収は5月からの予定
 ☆結団後、県合唱聯盟に加盟、実力が付き次第、コンサートや合唱コンクールにも参加の予定。
 ☆初心者、経験の有無、年齢を問わない由、同好の士の参加をお勧めします。 
  <連絡先>
 山本定男君まで
  メールアドレス  hi-s.yamamoto@bc.wakwak.com
  電話&FAX.   082−261−0027



英語で原爆体験を語る 荒谷 勲くん(平成19年・62回原爆忌)

 同期生で、平和記念公園で、通訳ボランティアをしている荒谷勲くんは、62回原爆忌(平成19年8月6日)
「英語を話す被爆者による英語での被爆証言」を聞いたカナダ人フリージャーナリストから、8月9日インタビューを受けました。その後連絡があり、彼のホームページに私の証言ビデオがアップロードされて、「ユーチューブ」で動画として掲載さえれております。
  http://www.youtube.com/watch?v=e6Ey1toJtI4

  http://jp.youtube.com/watch?v=6ZP3zh5T_ss
  被爆証言だけでなく、インタビューと平和公園ガイドがロードアップされています。

 (画面をクリックすると、動画と音声が始まります。右下の四角をクリックすると、画面が大きくなります)
  


正藤 英夫君 が、『時のせせらぎ』を上梓しました! (2007年1月)
 広島・瀬野という土地にみずからの原点を置き、そこから未来をさぐり、今を実践するという正藤君の思いが、
みずみずしい文体と、あざやかな過去の回想を織り込んで、読む人を感動させます。
 過去の記憶を粗末にしてきた私などには、到底描ききれない豊かな叙情性と感性を素直に表現して、著者と
の一体感を醸成してくれます。ぜひご一読下さい。  (文責 中村)
  <なお、書名をクリックすると、ネット書店アマゾンの、同書のページに繋がります



観音小学校から偲ぶ我が母校

この写真は同級生の塚本昭君からの提供です。
トップページの写真と比べると隔世の感じです。


  昭和42年に設置された
  二中の創建記念碑
  旧二中の被爆したプールの記念碑

新しく作られた観音小学校のプール




59年目の再会

昭和20年8月6日、広島県立第二中学校2年生であった我々は、
二葉の里(旧東練兵場で現在は新幹線の駅あたり)で被爆し、
同期生と別れて以後、仲のよかった複数の友人が消息不明でしたが、
この度その内の一人が米国のロス近郊に住んでいることがわかり、
E-mailや電話で連絡できる様になりました。
 彼からの依頼で、“原爆手帳の申請に協力してほしい”と連絡があり
市役所の原爆対策室から“証人が2名必要です”と言われたので
他の友人と証人申請を提出し、平成16年4月に認定され、
その手続きに広島へ来ると連絡が有り、59年目の再会となりました。
  (故佐藤文男君記す)

平和公園にて、右側が米国から来た中村君 在広の同期生で、左から古本、故佐藤君、山根君
 平和公園にて、中村君と古本君
 無事中村君の原爆手帳が認可され、
 アメリカへ帰国する前夜、再会を
 約束してのお別れ会(左より山根・中村・故佐藤)
 

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